2011年06月02日

「マイ・バック・ページ」

かつて過激派と呼ばれた左翼の活動家の訃報が時折新聞に載ることがある。華々しい活躍をしていた頃を知るものには、老いという歳月が刻まれた写真に痛ましさを感じてしまう。
彼らは普通の人の生活を拒否して地下に潜ったのであるが、数十年にわたるこの歳月、何を思いながら生きてきたのであろうか。彼らの多くは一流大学の学生であった。当時の学友たちは、あるものは大学教授となり、あるものはエリート官僚となったりして、社会のリーダーとして活躍している。
私はそういう活動家ではなかったし、学生運動に積極的に関わっていたわけでもなかった。しかし体制というものに対しては反発を感じていたから、その中に組み込まれていくということには強い抵抗があった。企業に就職してサラリーマンになることに対して罪悪感のようなものを感じていたのである。
「いちご白書をもう一度」という甘ったるい歌が流行った時代であった。
いつか君と行った映画がまた来る。
「いちご白書」はアメリカの学生運動を描いた映画だった。
髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね。
あの当時若者たちの間では長髪が流行っていて、年配の人たちはそれを、不潔だとか見苦しいとか言って毛嫌いしていた。
私も含めた当時の若者たちは、そんな心情的な関所のようなものを通って社会に出ていった。「もう若くないさ」がその言い訳だったとしたら、若者たちの反体制運動は若気の至り、はしかのようなものとなってしまうのだが、はたしてそんなものだったのか。
荒井由美の詞は、「いちご白書」を恋人と一緒に見た青春を懐かしむというものなのだが、中ぐらいの幸せを噛みしめている男が「二人だけのメモリーをもう一度」と歌って感傷にひたるようなものだったとしたら、長髪を毛嫌いする人たちの仲間に自分も入っていくということではないだろうか。
川本三郎の「マイ・バック・ページ」が映画化されたと聞いて、そんなことを考えた。店に単行本と文庫本の在庫があったのだが、いずれも売り切れてしまった。
川本は東京大学を卒業して朝日新聞に入った。朝日ジャーナルの記者をしていたときに、朝霞自衛官殺害事件の犯人と知り合い、証拠物件を預かり、それを焼却する。そのために川本は朝日新聞社を解雇される。「マイ・バック・ページ」はその物語である。
誰にでもある「マイ・バック・ページ」を思い出にしてしまってはいけないと思う。社会に順応して生きている自分にも、とんがった懐かしい時代があったのだと「メモリーをもう一度」的な感傷は害毒であるような気がする。
いまさらこの年になってとは思うものの、この年になったからこそ「マイ・バック・ページ」をきちんと検証しておかないといけないだろう。



Posted by 南宜堂 at 23:47│Comments(0)

 
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