2008年02月07日

桜桃

 太宰治の著作権は切れたのですね。青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で読むことができました。私小説というか、自分のことそのまま書いたような体裁になっていますが、太宰のことですからどこかに韜晦があるのかもしれません。
 夫婦と子供3人で住んでいる作家の一家のお話です。妻は家事に疲れ、育児に疲れ、妹が病気でそちらも気になる。夫は作家でいろいろと悩み煩うことがあるのですが、それは家族にも話せないし、話してもわかってはもらえないと思っています。それで家にいるのがつらくなり、仕事で借りている部屋に一人で行ってしまったり、仕事と称して呑みに行ってしまったり、要するに家族の煩わしさから逃れようとしているわけです。そこで、「子供より親が大事と思いたい」という反語的というか、自分に言い聞かせるような言葉が出てくるのです。

 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓(つる)を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚(さんご)の首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐(は)き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

 家族というのは、できの悪いホームドラマのように生温いものではなく、現実はやはりいろいろあってけっこう辛い部分もある、というのが家庭を長くやってきた者の実感ではないでしょうか。そういうことの行き着く先は家庭崩壊があったりそこまで行かなくても我慢の積み重ねがあるような気もします。
 そこで山田洋次なのですが、彼の映画は理想的すぎるのか。「幸せの黄色いハンカチ」など、何度見ても黄色いハンカチが満艦飾のようにはたはたと風になびいているシーンになると涙があふれてたまらなくなるのです。実際は待っていてくれる可能性なんてそんなにない、愛想をつかせてしまっても仕方ない状況なのですから。でも監督はそのことをよく解っていながらもそういうシーンを撮りたかった。そうあってほしいという願いのような気がします。そこが太宰治との資質の違いのような気がします。
 家族とはいいものだという24時間テレビのような楽天的お涙頂戴ではなく、家族なんて辛いものだよ、苦しいよということを理解しながらも、それでもつくっていこうよというのが山田洋次の基本姿勢のような気がします。映画「家族」で娘をおじいちゃんを死なせてしまったのは自分のエゴからかもしれないという思いが井川比佐志にはあるのです。それでも、北海道の大地で再生に向かうというところに監督のメッセージが込められているように思います。





Posted by 南宜堂 at 10:50│Comments(0)

 
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