2011年09月16日

小布施の文化

かつての小布施は、松代、須坂、中野を結ぶ谷街道沿いの埃っぽい町であったという印象がある。それが落ち着いた懐かしさを感じさせる街並みに変貌したのだ。妻籠や奈良井のように歴史的な建造物をそのままに保存するというのではなく、修景するということが大きな特徴であった。現代に江戸の生活を持ち込んでも不便なだけだ。外観には和のコンセプトを生かしながらも、材料や構造は最先端のものをというのが修景事業の特徴であったと思う。かくて、 はじめは栗菓子店とその周辺だけであった修景事業という構想は町全体に広がっていった。
街並み修景事業からこちらの小布施の変貌を見ていると、これらの事業を推進しているのは中流(ブルジョア)の文化ではないかということを思った。一億総中流という日本的な中流ではなく、西欧の市民社会を支えてきたブルジョアの意味である。
江戸を小布施に再現するという日光江戸村的な発想ではなく、小布施の場合は住人の立場に立って、快適な生活を維持しつつ落ち着いた街並みを作ろうというものであった。観光第一ではなく、住人の住みやすさが優先するという、衣食足りた後の余裕のようなものが感じられたのである。
その後に作られたレストランやホテルの趣きを見ても、大型観光バスで乗り付け、わーっと騒いで帰るような団体ツアーを拒否しているようなところがある。実際にはそういう団体も受け入れる度量は残しているのだが。
さらには、街並み修景事業の中心であった栗菓子店の小布施堂 は、文化事業にも力をいれ、かつての新宿中村屋サロンを彷彿させるような小布施堂サロン的な場を形づくっている。その中心となっているのが小布施堂現店主の市村次夫氏であろう。
こういった小布施の文化ともいうべきものの底流には、高井鴻山的な進取の精神が流れているように思われる。鴻山こそは財の上に文化を築くというブルジョア的な生き方の先駆のような人物であった。
北斎を小布施に招いたことにしろ、当時の小布施では金持ちの酔狂くらいにしか思われなかったのではないか。寺社や豪農たちはこぞって揮毫を依頼したろうが、農民にとっては北斎と言われても何のことなのかわからなかっただろうと思う。
北斎にしてみれば、画室を与えられ、一流の文人ともてはやされ、しかも江戸では得られない収入になったろうから、鴻山はありがたい旦那さまであっただろう。今でこそ世界の北斎だが、当時は一介の画工でしかなかった。その浮世絵の下絵師が本画を思う存分に書ける小布施は、老体を引きずっても訪れる甲斐のある町だったに違いない。
高井鴻山という人が意識していたかどうかは別として、小布施に北斎という種を蒔いたのである。それが100年という長い時間を経て、芽を出し花開いた。と言えるかどうか。北斎は世界的になり、小布施も多くの観光客で賑わっている。これが開花であり、成功であるというのならいいのだが、私は少し釈然としないものを残している。多くの人が訪れ、経済的な効果も十分にあったということが成功だったとはいえないのではないかと思うからだ。



Posted by 南宜堂 at 11:47│Comments(0)

 
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