2008年03月10日

はせを「更科紀行」の謎

 姨捨山について、芭蕉はその印象を次のように述べています。
「姨捨山は八幡と云里より一里ばかり南に、西南に横をれてすさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。なぐさめかねしといひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、」
 そうしてその後に次の二句が載っているのです。
 俤や姨ひとり泣月の友
 いざよひもまだ更科の郡かな
「俤や」の句は当然ながら姨捨での作、そして「いざよひも」の句は現在の坂城町に句碑がありますので、この地で詠んだものです。
 中秋の名月、すなわち8月15日の夜に姨捨に着いて一句詠み、翌日いざよいすなわち8月16日には坂城にいたということです。45歳初老の芭蕉は健脚です。芭蕉忍者説もあるくらいですから、このくらいの距離は朝飯前だったのかもしれません。
 しかし、実はこの旅でもうひとつ重要な場所で有名な句を残しているのです。
   善光寺
 月影や四門四宗も只ひとつ
の句です。疑問に思いませんでしょうか。そうです、この善光寺の句いったいいつ詠んだものなのでしょう。常識的に考えますと、15日に姨捨、というか姨捨山にかかる月を見るわけですから、おそらく八幡に滞在して見たのだろうと思います。そして16日の朝八幡を発ち、その夜に善光寺で「月影」の句を詠む。すると十六夜には坂城にたどり着くことができません。
 合理的に考えるには、遠回りにはなるが善光寺に先にお詣りをしてその後で姨捨の月を見たということになるのですが、実はそれを不可能ならしめている事実があるのです。
 それは芭蕉自らの手になる次の一文です。「八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。」これもすごいスピードです。美濃つまり岐阜を8月11日に出発して、15日の夜にはようやくさらしなの里に着いたというのです。善光寺までまわっている余裕があるのでしょうか。
 そんなわけでこの善光寺の句、いったいいつ作られたものなのか、更科紀行最大の謎です。合理的な答えがありましたら教えていただきたいと思います。



Posted by 南宜堂 at 00:44│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。