2007年04月01日

鉄道開通の余波

 明治二十年東京における白米十キロの値段が四十六銭(朝日新聞社「値段史年表」)の時代に、長野・直江津間の運賃が下等でも六十銭といいますから一般人にはおいそれと乗れるようなものではなかったことでしょう。開通の日には近郷近在から見物人が押しかけたといいますが、日常的に利用できるのは一部の人だけであったようです。その効用はむしろ、昨日も述べたように生糸をはじめとする物資の輸送にありました。しかし、鉄道の開通はじょじょにではありますが長野の町に変化をもたらしたのです。
 これは鉄道の開通前のことですが、明治十八年頃から長野にも西洋料理を食べさせる店ができてきましたが、中でも明治十九年に新小路に開業した西洋軒は長野ではじめての本格的な西洋料理を出す店でした。新小路は現在の大門町清水屋旅館と中澤時計店の間にある小路で、西洋軒はその中程南側にありました。
 この西洋軒のことが、鉄道開通から四ヶ月ほど過ぎた九月の新聞に紹介されています。 
「当地は仏地なれば洋風の生臭料理は行はれずとの偏説は取るに足らぬとするも普通上よりして一体洋食にはまず冷淡の感あるところなりしが二三年来漸く之を欲するの傾き出でて是迄間業に之を為し又息めたる其中にも今日に在りて継続之が営を為すの烹店もあり且此節は鉄道の便に依りて内外都人士紳商等の出入通行の頻繁なるより又市在の人種中にも時好を試みんとする向ありて洋風料理もをさをさ多量を要するに至りたり彼の新小路なる西洋軒には昨今一日に平均二十五名乃至三十名の来客在りて其種類を大別すれば官員体が一分遠来人が一分鉄道員が二分余乃六分は土地市在の人種にて概して商人が多きに居る由又折々来長する貴顕及び外人等は一泊中にも二度三度至り食すること往々ありて或は洋風旅舎室の無きを惜しむ人少なからずといへり何様当地鉄道は昨今出張所になりたる事にもあれば随って洋風旅館は設立も必要なるべし」(「信濃毎日新聞」明治二十一年九月六日)
 鉄道が開通してさまざまな人が長野を訪れるようになりました。それらの人たちが西洋軒の主な客だったわけですが、地元の人たちの中にも新しもの好きな人たちがいたとみえ、だんだんと西洋軒の客が増えていったということなのでしょう。西洋軒ではどんな料理が出されていたのか、少し後になりますが明治三十八年の新聞広告に「チキンライス三十銭」「ライスカレー二十銭」とありますので、今でいう洋食屋さんのようなメニューだったのでしょう。

 明治四十一年、以前誤試定でも紹介した南新助が率いる善光寺参拝団が列車で長野を訪れます。この団体は滋賀県草津から来たものでした。南新助は草津駅前の弁当屋でしたが、明治三十八年高野山参詣と伊勢神宮参拝を列車による団体旅行で実施しました。いずれも百名ほどの参加がありました。これが日本初の旅行あっせん業ということになっています。やがて南は旅行あっせんの日本旅行会という会社を設立します。これが現在の日本旅行の前身です。
 この時南は列車の中でガリ版刷りの旅のしおりを配ったり、夏はかち割りやスイカ、冬には粕汁をふるまったりとサービスにつとめたといいます。
 この成功に力を得て実施したのが善光寺参拝団でした。当時、四百人以上の団体であれば運賃は半額になるという決まりがありました。その話を聞いた南は一大決心をして募集をはじめたのですが、当初はなかなか集まらなかったようです。旅行代金が安すぎて誰も信用しなかったのです。そのうちにだんだんと話が広がり、善光寺講の先達の協力もあって、九百人もの人が集まりました。この日本初、国鉄貸切臨時列車による善光寺参拝団には九百名が参加、江の島、東京、日光、善光寺を巡る七日間の旅で、旅行代金は十二円八十銭でした。またまた白米の値段で恐縮ですが、明治四十年の価格が十キロ一円五十六銭でしたから、五万円を切る旅行代金ということで、今から見ても格安旅行でした。
 滋賀県草津からの団体が訪れた頃の長野駅のようすはというと、長野駅舎は明治三十五年木造二階建てに建て替えられています。篠ノ井線、中央線の開通で、長野駅の乗降客が飛躍的に増えたからでした。明治四十三年の統計では、長野駅の乗降客は年間八十万人にのぼっています。しかし、駅前広場はまだ狭く、如是姫の像もありません。駅と向かい合うように木造三階建ての藤屋旅館の支店と三層の塔のような五明館の支店がそびえています。駅前から現在の末広町交差点までは、旅館・土産物店・そばや・肥料店などの商家がすき間なく立ち並んでいました。
 団体を受け入れる宿坊では、こんな椿事は善光寺はじまって以来のことと楽隊屋を頼んで駅まで出迎えに出ました。駅前の旅館や土産物店の呼び込みの声の中、牛ならぬ南新助に引かれ人々は、楽隊を先頭ににぎやかに善光寺に向かったことでしょう。

 開業当時は鉄道など無縁であった長野の人々も、さまざまな形で鉄道の影響が浸透してくると、鉄道に対する思いも少しずつ変わってきました。そのへんについてはまた改めて考えてみることにしましょう。



Posted by 南宜堂 at 20:21│Comments(0)

 
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