2008年03月12日

久米路橋を渡って篠ノ井へ

 久米路橋を渡って篠ノ井方面に向かいますと、「橋のたもとには、旅人相手にわらじを売るなどして100年以上続く雑貨店もある。」(読売新聞記事)と紹介されたよろずやさんがあります。
 先日、ながの映画祭で見た昭和初期のフィルムに久米路橋とともに山の中を走る乗合バスが映っていました。創立されたばかりの川中島自動車の姿だと思います。
 川中島自動車と創立者宇都宮信衛については、以前に書いたことがありますが、再び。宇都宮信衛は現在の長野市信更町の生まれということですから、新町から篠ノ井に至る山間地が故郷なのでしょう。大正15年5月、篠ノ井駅−田ノ口−新町間および稲荷山駅−田ノ口−新町間で乗合バスの運行をはじめています。その頃の乗合バスのようすについて川中島バスの社史に記述があります。「当時,バス停留所は一応定められてはいたものの,手を挙げればどこでも停車し,乗車することができ,許可料金も諸物価に比べてかなり高額だった。スピードについては,許可条項の中に「徐行区域として指定したる箇所は,歩行者と同一の速度にて徐行すべし」とある。」とまあ、結構料金は高かったものの、乗合といってもタクシーなみに手を挙げればどこでも停まったようです。
 利用した人は、篠ノ井や稲荷山駅から汽車に乗る人たちだったのでしょう。いまこの山中を走ってみれば、現代の経済効率を考えたならばとても乗合バスの運行など考えられないなと思ったわけですが、宇都宮は自分の育った貧しい郷土の振興のために何とかしようとバスを走らせたのかもしれません。
 なかなか米など作れなかった当時の山中では「雉も鳴かずば撃たれまい」のような悲劇があったことでしょう。
 山中を抜けると善光寺平が一望のパノラマが楽しめます。冠着山も森将軍塚もそこからは眺められるわけですが、新町あたりからここに出てきた人々は、善光寺平の広さと明るさにどんなことを思ったのでしょうか。



Posted by 南宜堂 at 09:57│Comments(0)

 
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