2007年04月02日

仏閣型駅舎

仏閣型駅舎
 先代の仏閣型長野駅舎が完成したのは昭和十一年のこと。三月十五日午前十時から竣工式が行われました。朝八時に華々しく花火が打ち上げられ、地元の末広町、南千歳町、南北石堂町では戸毎に国旗を飾って新駅の完成を祝いました。総工費は十五万二千六百二十四円、鉄筋鉄骨造りで三層屋根は銅板葺きでした。同時に千二百坪の駅前広場もつくられ、如是姫の像はこの時善光寺境内から移されたのです。
 三月十五日付けの信濃毎日新聞はその模様を次のように伝えています。
「仏都を象徴した豪華なローカルカラーと明朗なモダン性を濃く彩って仏閣型長野駅が近代建築学の粋を凝らして竣成した。古典とメカニズムの美しい構成美が、早春の空に映光と威容を発して『仏都長野市』の玄関口に相応しい色彩を多分に滲み出している。」
 膨大な建設費をかけてまで、仏閣型にこだわった駅舎がつくられたのは、先の新聞の記事を引用すると「『仏都長野市』の玄関口に相応しい色彩」を醸し出すためでありました。昔から善光寺は全国から多くの参拝の人を集めていましたが、鉄道が開通してからは昨日の南新助の参拝団のお話からもわかるように飛躍的にその数が増えたのです。特に御開帳の年は団体の参拝客が期間中引きをきらなかったようです。そんな善光寺門前町の玄関である長野駅は、それにふさわしい建物でなければならなかったのです。ちなみにこの年は善光寺の御開帳が開かれた年であり、この新駅舎は誘客のためにも一役買っています。
 よく善光寺を模してつくられたといわれる先代の長野駅ですが、善光寺本堂の形とは微妙に違っていました。あの駅舎、善光寺は善光寺でも鎌倉時代の善光寺、「一遍聖絵」に描かれた善光寺本堂をモデルにしたものだといわれています。昭和初期の設計思想というものは、かくも古典に対して律儀なものだったのかと感心するばかりです。
 安直に「○○風」を気取った時代不詳、国籍不詳の建物がはびこる現代、あげくの果てには仏閣型の覆いをかぶせたらどうかという珍案まで飛び出す始末。仏閣型の駅舎をつくった人々がこれを見たらどんな思いを抱くのでしょうか。



Posted by 南宜堂 at 23:27│Comments(0)

 
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