2008年03月20日

歌枕について

 戸隠には「西行桜」と呼ばれる桜の木があるのだそうですが、まだ見たことはありません。西行が旅の途中戸隠に詣ったという言い伝えがあります。しかし、西行の伝記を調べてもそんなことは書いてない。どうもこれは伝説であって事実ではないようです。同様に弘法大師空海も信州各地にその名を残していますが、これも伝説のようです。
 空海や西行がいかに旅の名人であったにせよ、昔の旅というのは誰もがそう簡単にできるものではなかったようです。それにしては昔の歌集など見ると、全国各地を詠んだ和歌が収録されていたりして、歌人というのは全国各地を旅して歩いて、名所名所で歌を詠んでいたのかと錯覚してしまうのはなぜなのでしょう。
 例えば、坂上是則の作というこの歌
園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな
 園原は「信濃の国」にも歌われる「たずねまほしき園原」の園原です。場所は下伊那郡阿智村です。ここに生える箒木は、遠くから見ると箒のように見えるのに近づくと見えなくなるという伝説があって、それに取材したのがこの歌です。それでは作者の坂上是則は実際に阿智村まで来てこの歌を作っているのかというと、おそらく来てはいないのではないかと思われます。
 同様に、例の姨捨の歌や久米路橋の歌も現地で作られていない可能性が高いのです。それはどうもルール違反なんじゃないかと、現代に生きる私たちは思うのですが、昔はそうではなかったようです。そのへんを解明するキーワードが「歌枕」といわれるものです。
 「歌枕」とは、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞・名所など。」あるいは「古歌に詠み込まれた諸国の名所。」と「広辞苑」にはありますが、要するに歌に詠まれるような有名な場所ということでしょう。
 当時の貴族社会にあってはそういう教養というのが蔓延していたようで、姨捨伝説にしろ箒木伝説にしろ、知っているのが当たり前、知らない人は無教養、歌など詠む資格がない人ということになったのでしょう。
 そこに行ったことがあるのかないのかなんぞということはどうでもよくて、その名所のバックグランドについての豊富な知識をもとに歌を作るのがまことの教養人であったのでしょう。
 後世の人々は、そんな都で作られた地方の歌を有り難がって歌碑なんかをつくっていたりしますが、あくまでもそれは昔都でこの場所はこんなに有名だったのですよということなのであって、あの著名人の誰々さんがこの地でこんな歌を作りましたということではないようです。



Posted by 南宜堂 at 23:52│Comments(0)

 
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