2007年04月07日

千石街


 一線路(末広町)と二線路、そして中央通りに囲まれた一帯が千石です。映画館を中心に飲食店などが並び、狭いながらも長野では権堂に次ぐ歓楽街となっています。ここもまた鉄道が開通して新しくできた町です。あるガイドブックを見ていましたら、このへんは昔は一面の田園地帯で、そこから千石という地名が生まれたという説明がありました。非常に説得力のある説明で思わず納得してしまったのですが、どうも千石という地名は昭和になってできたもののようです。よく考えてみれば、一万石で大名といわれた江戸時代、あんな狭い場所で千石もの米が穫れるはずがないですね。
 昭和十二年の信濃毎日新聞にその記事があります。
「約四万円を投じて末広町、二線路間四千九百坪の地域に、古川堰埋め立地を利用して中央通りと千歳町通りを結ぶ幅員三間の幹線道路を設定、さらに二、三本の道路網を張って将来小さな盛り場式商店街としやうとの計画である」(「信濃毎日新聞」昭和十二年六月十九日付)
 この盛り場、千歳町と石堂町から一字ずつとって千石街とされたというわけです。
 しかしこの計画太平洋戦争の勃発で足踏みを余儀なくされ、本格的に盛り場として定着したのは戦後になってからのようです。

 終戦直後、この千石街の入口現在のホテルサンルートのあたりに、「青空市場」という名の闇市がありました。
 長野駅周辺は、終戦の直前に米軍の空襲にそなえて建物の強制疎開が行われたため、戦争が終わった後も無惨な姿をさらしていました。しかしそこは、復員兵や買い出しの人々が行き交う駅前広場です。戸板を並べた程度の露天の闇市ができはじめ、日々の糧を求める人々でにぎわいはじめたのです。通称「青空市場」、飢えた人々の空腹をみたす食べ物、石鹸や衣料品といった生活の必需品、どこから仕入れるのかここではさまざまな商品が売られ、長野でも一番の活気のある場所でした。
 闇市はしばしば警察の取締の対象となりました。しかし、敗戦直後の市民の生活は闇市の存在抜きには成り立ちませんでした。食料の配給制度はあったものの、遅配・欠配は日常茶飯、昭和二十一年の六月には配給生活を守り通してきた松本の教員が栄養失調で死ぬという事件も起こっています。
 あれほどにぎわった青空市場でしたが、戦後の混乱がおさまり生活が落ち着いてきたのと警察の取締りもあって昭和二十一年の夏には姿を消しました。



Posted by 南宜堂 at 10:22│Comments(0)

 
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