2008年04月04日

ねがいかないがわ

 酒まんじゅうのつるやさんのあたりには、昔はまんじゅうやさんが多く並び鐘鋳端のまんじゅうやとして長野の名物でありました。今は暗渠となって地下を流れている鐘鋳川に沿って歩くと、裏権堂町の通りと交わるあたりに田面稲荷という神社があります。
 説明書きを見ますと、むかしお稲荷さんをまつった小さな祠があり、近在の人々の信仰を集めていたとあります。それが地の利もあったのでしょう、いつか権堂の遊郭のお女郎さんたちが多く詣るようになったということです。すぐ横を流れる鐘鋳川と心願が叶うにかけて、そんなことにも彼女らは良い知らせの前兆と考えたのでしょうか。
 この間の居残り佐平次の話もそうですが、江戸時代の落語や芝居の舞台には吉原がよく登場します。十辺舎一九の「膝栗毛」などにも飯盛女のことがおもしろおかしく書かれていたりします。今は売春は犯罪ということになっており、おおっぴらにできる職業ではありませんが、江戸時代には吉原のガイドブックなんかも出ており、罪悪視されることは少なかったようです。
 しかし、表の華やかさとは裏腹に彼女らの生活は悲惨であったようです。そもそもが、人身売買によって連れてこられたわけですから、勝手な外出はゆるされず、わずかに出かけられるのは神社仏閣にお参りするときだけであったといいます。
 いま、周りをビルやマンションに囲まれたこの田面稲荷の境内にたたずんでいると、何か物寂しい気分におそわれるのは、気のせいなのでしょうか。そういえば、表権堂や裏権堂の通りを歩く時も同じような気持ちになることがあります。田面稲荷のおきつねさまに祈ったのは、早く年季が明けますようにということだったのか、その願いが見事かないがわとなったお女郎さんはどのくらいいたのでしょうか。
ねがいかないがわ



Posted by 南宜堂 at 23:03│Comments(0)

 
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