2012年04月11日

恩田木工と「日暮硯」

店に居ては本の配置を変えたり、家に帰っては早くに寝て夜中に起きて原稿書きと身辺慌ただしく、なかなかブログの更新ができないでいる。
松代藩の歴史は、丁度恩田木工の改革を書き終えたところで、マラソンでいえば折り返し点というところ。後半部分は佐久間象山がヤマになると思う。
恩田木工は「日暮硯」で知られる松代藩の家老だ。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』で紹介されて有名になったとあるが、わたしは読んでいない。
セゾングループの総帥であった堤清二さんが現代語訳をしている。また、歴史家の奈良本辰也が何冊か「日暮硯」についての著書がある。
家老恩田木工に指導された宝暦の改革は、宝暦十二年一月六日に木工が死去するまで続くのだが、これによって松代藩の財政状況が好転したということはなかった。改革の途中で木工が死去したということもあり、改革はそれから長い間かかり、財政状況は緩やかによくなったということらしい。『日暮硯』の記述は木工を理想化しているといえる。そして、その記述内容も実際の改革とはだいぶ食い違っている。
むしろ『日暮硯』は、恩田木工の改革の記録という風に読むのではなく、行き詰った幕藩体制を切り開くための精神の書として捉えるべきものなのかもしれない。そして、そのように読まれたからこそ当時の多くの武士層に読まれたのであろう。さらには、現代でも色褪せることなく読み継がれているのであろう。
木工の改革の基本は、藩士との関係においても、また領民との関係においても、まずは「虚言を一切申さざる」すなわち嘘は言わないということにあった。このことにより、互いの信頼関係を築くことをまず目指したのである。その上で、藩士の規律、また百姓の年貢の収集には厳しい態度で望んだ。そのためには、まず自分を律する必要があると、妻を離縁し、子を勘当し、家来には暇をだすと宣言するのである。「先づ手前儀、向後虚言を一切申さざる合点に候。然るに、女房始め子供・家来共、親類中も虚言申し候ては、『木工が虚言申すまじくとは申せども、近き親類始め家内の者、あの通りなれば、木工からして合点ゆかず』と疑ひ申すべく候。さすればこの役は相勤まり申さず候。」というのである。
しかし、だからといってすべて規律一本やりで筋を通したというわけではない。年貢未進の百姓に「未進すると言ふは言語道断、不届者なり。悪き奴原、寸々にしてくれてもあきたらぬ者共なり。役人は又、何とて此の者共には未進させて置きたるぞ。骨を削ぎても急度取り立つべき筈なり。それに未進させて置きしは、役人大べらぼう、悪き奴ばらなり」と恐ろしい形相で怒ってみせた。
しかし、続けて「斯く言ふは理屈といふものなり」。そうはいっても、これは理屈というものだ。未進するというのは、よくよくの事情があってのことだろう。また、役人たちもそのことをよく知っていて見逃しているのだろう。これは役人の仁政というものだ。
この上、未進分を早急に納めるようにと言ったところで、ないものは納めようがなかろう。これについてはお上の損ということで、納めなくともよい。だが、今年の年貢は一粒も未進があってはならない。もしそういう事態になったら今度は厳罰をもって臨むからそのようにと心得よ。
実際は未進分を免除するということはなく、年賦により納めさせたわけだが、お互いに得心のいくように法律を柔軟に解釈して治世をすすめたのが木工の方法であった。
江戸時代は身分制の厳しい時代であったが、木工のころになると百姓にしても商人にしても、その力を無視できなくなっており、力ずくで彼らを抑えきれなくなっていた。木工の前任者の原八郎五郎にしても、田村半右衛門にしても、力ずくの政治をして、足軽のストライキを招き百姓一揆を招いたのである。木工の政治は武士による支配という封建制の枠組みは変えないものの、その中身は納得ずくで従わせるというものであった。そのためには、自分を厳しく律しながらも、相手には柔軟な態度で臨んだのである。



Posted by 南宜堂 at 01:27│Comments(0)

 
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