さて、戊辰戦争研究会解散の真相に迫ろうとしておりますが、問題は突然に起こったわけではありません。総裁の独走と灰色カラスのでしゃばりに不満がたまってきていた会員たちに対し、総裁と一般カラスの間にたってなんとかなだめてきた組長カラスたちでしたが、そのうちに我慢ができなくなったのか、組長をやめるといいだしたのです。
直接の原因は、星氏が突然にある人物を顧問にしたいということでした。仮にI氏としますが、I氏の設立した会に星氏が顧問に推されたことからその返礼にと星氏は考えたようです。もっとうがった見方をすれば、I氏の祖先というのは会津藩では超有名な人物でしたから、親しくしておくのは何かと自分に有利と思ったのかもしれません。
自分の一存でこれを決めようとした星氏に対し、幹部たちはまったとかけたのです。規約で顧問は一名と決まっている、もしI氏を顧問にするなら規約の改正が必要だというのです。問題はI氏が顧問となることではなく、幹部会を作っておきながら、そこでの決定を全く無視して自分の思い通りに事を運ぼうとする星氏の手法への批判であったと思います。I氏の会には現在幹部の何人かが所属しておりますから。
一般カラスたちはどうかやめないでくれと嘆願書をつくって総裁や組長カラスに訴えましたが、総裁はこれ幸と5人の辞表を受け取り、代りに灰色カラスとその仲間を組長に任命してしまったのです。
この一連の措置に対して、掲示板ではさまざまな意見が飛び交ったのです。灰色カラスの就任に批判的な意見が寄せられたのは、会員の人望がなかったからです。しかし、星氏にはもう信頼にたるものは灰色カラスしかおりませんでした。灰色カラスに会の運営を託すしかなかったのです。
そんな混乱の中で起こったのが、掲示板削除事件です。総裁や灰色カラスに都合の悪い投稿を掲示板から削除してしまったのです。今ではこの事件は総裁の指示で灰色カラスが実行したことはわかっています。
それまでは総裁のやることと我慢してきた一般カラスでしたが、ここまで好き放題にやるのはゆるせないと、一斉に削除へのの批判をはじめました。
大勢のカラスたちに責められて灰色カラスは投稿の復活という作業をさせられたのですが、これがまたお粗末で、誤字や当て字はおおいは、復活しなかった投稿はあるやで、またまた会員からの批判を浴びることになりました。
そんな混乱の中、総裁は、苦し紛れだったのでしょう、突然「もう烏の森は解散するからどこへでも行ってくれ」と宣言したのです。
これにはカラスたちは困りました。長年暮らした烏の森です。いまさらどこかに行けと言われてもあてがあるわけではありません。
ところが、そんな舌の根の乾かぬうちに、「解散は宣言したが、カラスたちの要望もあり、もう一度ここで国をつくりたい」と言い出しました。これにはカラスたちもほっと一安心をしたのですが、続いて灰色カラスから発表された烏の森に住むための条件には唖然としてしまいました。
一、烏の森の運営を混乱させる誹謗や中傷をしない。
一、烏の森の秩序維持に協力する。
これが最低の条件です。
上記の会則に違反したカラスは、烏の森を出て行って頂く事になります。
また、羽の黒いカラス以外は出て行っていただきます。
最初の2つは仕方ないとして、最後の羽の黒いカラス以外は住めないというのには困ってしまいました。烏の森にはいろいろな色のカラスがいて、それぞれに仲良くやっていたのです。灰色カラスやその仲間だって羽が黒いわけではないと思ったら、彼らはいつの間にか羽を黒く染めていました。
結局、羽を黒く染めても残りたいカラスは残り、他のカラスは烏の森を出て行きました。そのときあるカラスはこうつぶやきました。
「羽の色が異なっても共に暮らしてきたのが我々カラス族であった。それが羽を黒く染めなければ烏の森に住めないというのはおかしな話である。ほかの森のカラスたちから、おまえはそこに居て恥ずかしくないのか、と言われた時に胸を張ってこたえられないから、私は断然ここを出て行く」
この一連の動きが偽装解散ではないかと疑われているのです。作家星亮一にとって、戊辰戦争研究会を主宰しているということは一つのステータスです。それを簡単には手放さないだろうというのです。また、灰色カラスにとってもせっかく事務局長になったのですから解散はしたくないでしょう。しかし、幹部たちをはじめ、残ってほしくない会員もいる。そこで、いったん解散して、改めて同名の会を立ち上げたというわけです。その時、会員をふるいにかけるために作ったのが次のような会則です。
会の運営を混乱させない。
誹謗や中傷をしない。
会の秩序維持に協力する。
これが最低の条件です。
上記の会則に違反した方は、退会して頂く事になると思います。
また、思想信条の異なる方の入会はお断りします。
こうして発足したのが、新しい戊辰戦争研究会です。参加したのは旧会員60人のうち12人、実に48人の人たちが参加しませんでした。もうこの時点で新しい戊辰戦争研究会がどんなものであるかは想像できるでしょう。ぬけぬけと2005年から連綿と継続していることがうたわれていますが、一度解散した後の会は、星亮一氏の世間体だけの会にすぎないのです。