2010年11月13日

川中島の戦い

 上杉謙信が川中島に遠征したのは、北信濃の武将の要請によるとされている。謙信の書状にも「村上方をはじめとし、井上・須田・島津・栗田、その外連々申し談じ候。殊に高梨ことは、取り分け好の儀あるの条かたがた以て見除せしむべきに非ず。」とある。ここに記されているのはみな北信濃の豪族で、特に高梨氏とは姻戚関係にあった。もちろんこういう要請もあったであろうが、本音は「信州味方中滅亡の上は、当国の備え安からず候。」という色部勝長に宛てた書状に書かれているように、自国の安全への危機感であったろう。
 こうして謙信は北信濃に出陣し、川中島の戦いがはじまるわけであるが、両雄の対決は天文22年から永禄7年まで5度に及んだことは前に述べた。この5回の戦いのうち最大のものは永禄4年の第4回目の戦いであった。この戦いのようすは「甲陽軍鑑」などに詳しいが、事実を伝えているかというと怪しいようである。「甲陽軍鑑」の成立は江戸時代初期である。また、その内容も信玄に有利なように書かれている。そんなことで、信憑性には疑問があるが、とりあえずは「甲陽軍鑑」に即して、川中島の戦いの模様を再現してみる。
 永禄4年8月16日、川中島からの飛脚が甲府に到着し、上杉謙信の軍勢1万3千人が、海津城に近い妻女山に着陣したことを伝えた。これに呼応し、信玄は18日に甲府を発ち、24日に川中島に着き、妻女山とは千曲川を隔てた茶臼山に着陣した。その後、29日には海津城に入った。
 9月9日、信玄は海津城で軍議を開き、山本勘助の策を採用して、いわゆるキツツキ戦法によって上杉軍を妻女山から川中島におびき出すことを決めた。翌深夜、高坂昌信を先導に、飯富虎昌、馬場信春、真田幸隆ら1万2千の軍勢は密かに海津城を出発し、妻女山に向かった。一方で、信玄は8千の軍勢を率いて海津城を出て八幡原に陣を布いた。武田軍ら追われ、妻女山を下ってくる上杉軍をここで迎え撃とうというのである。この信玄が本陣とした通称八幡原が現在の川中島古戦場である。
 上杉謙信は武田の攻撃を予期していた。妻女山からは海津城が見渡せる。海津城にいつもの時間よりも早く飯を炊く煙が上がったのである。その夜11時ごろ、謙信は全軍を率いて妻女山を下った。雨宮で千曲川を渡り、丹波路方面へと軍を進めたのである。頼山陽の有名な詩にある通りである。
 鞭声粛々夜河を過る。暁に見る千兵の大牙を擁するを。遺恨十年一剣を磨き、流星光底長蛇を逸す。
 川中島には霧が立ちこめていた。千曲川からのぼる川霧である。一瞬の霧の晴れ間、八幡原の武田軍は目の前に上杉の大軍が迫っているのを見る。信玄はキツツキ戦法が破れたことを知るのである。ここに戦国史上最大といわれる川中島の戦いがはじまる。戦に明け暮れた戦国時代にあっても、まれに見る激戦であった。こんなにも激しい戦いになったのは、両軍とも霧のためにお互いがすぐ近くにいることを知らず、突然霧が晴れたことによるまさに遭遇戦だったからではないかといわれている。
 この時に信玄・謙信の一騎打ちがあったと軍記物は伝えている。古戦場に立つ一騎打ちの像のような光景が展開したというのだ。萌黄の胴肩衣を着け、頭を白い布で包んだ一人の武者が、月毛の馬に跨がり三尺ばかりの大刀をかざして武田の本陣に斬り込んだ。床机にかけていた信玄は、手にした軍配団扇でその太刀を受け止めた。それを見た原大隅は長柄の槍で馬上の武将を突いた。槍は外れ、馬の尻を突いてしまった。馬は驚いて後ろ足立ちになり、武将を乗せたまま一目散に駆け抜けて行ってしまった。この武将こそが上杉謙信であったというのである。
 この戦いは朝の6時ころに始まり、午後の4時ころまで続いた。前半は上杉軍の優勢、後半は妻女山攻撃隊が加わったこともあって武田軍の優勢で展開した。この戦いで、信玄は弟の信繁、諸角豊後守、山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎といった武将を失った。上杉軍も多くの武将を失い、結局は勝負がつくことなく戦いは終わったのである。

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Posted by 南宜堂 at 08:25│Comments(0)信州
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