2011年09月15日

高井鴻山

小布施は常に何か新しいことをしているまちとして近隣の長野に住む私には嫉妬の対象である。その小布施で一箱古本市が開かれるという。いやこれはもうずいぶん前からやっていた催しで、私が知らなかっただけなのだが、いずれにせよ本屋も古本屋もない小布施で一箱古本市が開かれるのだ。不思議なことである。中心になって運営しているのは、町立図書館である。町図書テラソという愛称を持っている。
常に新しいことを手掛けるという、小布施スピリットの元祖のような存在が高井鴻山という江戸から明治にかけて生きたこの土地の素封家である。
鴻山は文化3年生まれ、高井家はこの地方きっての素封家であり、酒造業も営んでいた。鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢饉に際して高井家の蔵を開放して窮民の救済にあたった。それが幕府に認められ苗字帯刀を許されたという家柄である。
文政3年、15歳のときに京都に遊学し、文化11年に父親の死去により家督を継ぐために帰郷するまで、京都そして江戸で書、絵画、和歌、国学、朱子学を学び、江戸の佐藤一斎の塾では松代藩士である佐久間象山と親交をもった。
天保13年には83歳の葛飾北斎を小布施に招く。鴻山が北斎とどんなきっかけで知り合ったのかは不明だが、その画風に惚れこんで小布施に招いたものであろう。その後、北斎は何度か小布施を訪れ、多くの肉筆画を残している。中でも岩松院に残る鳳凰図は、北斎89歳の作で、その迫力には圧倒さる。
高井鴻山は、北斎を小布施に招いた素封家として歴史に名を残してきたのだが、近年になって鴻山自身の業績も研究されるようになり、画家としての側面、また明治になっては長野に学校を建設しており、信州における教育の先覚者としての側面も知られるようになった。特に妖怪画が得意としており、高井鴻山記念館に収蔵されている。
北斎の訪問から100年以上もたって、小布施という北信濃の小さな町に多くの肉筆画が残されていることが知られるようになった。昭和51年には北斎館という美術館ができ、小布施の名は北斎の町として全国に名を知られるようになった。
さらには、昭和55年には街並み修景事業がはじまり、小布施の町の様子は一変する。この事業は、当時の主体となって事業を進めた栗菓子店「小布施堂」のホームページの表現を引用させていただけば「小布施町並み修景(しゅうけい)事業は、そこで暮らす人の視点に立ち、小布施堂界隈の町並みを美しく再構築した、1980~87(昭和55~62)年の事業のこと。 行政、個人、法人という立場を違える地権者が、対等な立場で話し合いを重ね、土地の交換あるいは賃貸により、双方に利のある配置換えを果した。 国からの補助金などに頼ることなく、住む人主体で新旧建築物の調和する美しい町並みをつくる新しいやり方は「小布施方式」と呼ばれ、現在に至るまで全国から注目されている。」というものであった。


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Posted by 南宜堂 at 21:30│Comments(0)信州

 
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