佐久間象山と会津 2

南宜堂

2013年01月22日 21:18

 松代藩の歴史を書くのに集めた資料の中に大平喜間多著『佐久間象山』という昭和5年に刊行された本があった。「信濃郷土叢書」の1冊として出たもので、子ども向けにと銘打たれているが、私にはわかりやすくて丁度よかった。
 その中に今でも問題になる象山雅号の読み方についての著者の意見を記した箇所があった。長くなるが引用させていただくことにする。
「象山というのはその号であって、之れは先生の家の西南に聳えている象山(ぞうざん)という山の名を取って付けられたのである。其号を呉音に読んで「ぞうざん」という人と。漢音で読んで「しょうざん」と唱えている人がある。先生の生まれ故郷の人達は多く「ぞうざん」といいならわしている。されど其中でも極少数ではあるが漢学を習った人々のみは昔から「しょうざん」と申している。「ぞうざん」というのは間違いだ「しょうざん」と呼ばなければならぬとか、また「しょうざん」というべきでなく「ぞうざん」と発音すべきだとか。今でも時々議論に花を咲かせることがある。さりながら字の読み方の如何によって先生の値打ちが上がる訳でもなく、また下がる訳でもないないからどちらでもよろしいが、嘗て先生の門人であった久保成という方が、著者に語られますには「しょうざん」というのが正しい呼び方である。自分達門下生は何れも象翁(しょうおう)と呼んでいたと教えて下さった。漢学者で人一倍文字の読み方をやかましくいわれた先生のことであるから、たとえ世間では「ぞうざん」と発音していたにしろ、ご自分では「しょうざん」と申しておられたことと思われる。」
 雅号のことで「時々議論に花を咲かせる」信州人というのはよほど暇で議論好きなのかと思われそうだが、いまだにそんな遺風が残っているようで、現に私もそのことでこうして紙面を汚しているというわけである。
 要するにどちらでもいいのだが、象山自身は「しょうざん」であるとしていたというのである。この本が出版された後に象山神社ができ、象山記念館ができるのだが、これがいずれも「ぞうざん」と発音するのである。また、明治32年に作られた「信濃の国」という歌に「ぞうざんさくませんせいも」という歌詞があるのだが、この作詞者浅井洌は旧松本藩士で、長野師範学校の漢文の教師であった。浅井が漢音と呉音の読み方の違いを知らなかったとは思えないが、象山が死んで三十数年が過ぎた信州では「ぞうざん」が一般的だったのかも知れない。
 地元の人々が「ぞうざんせんせい」と呼び習わしているのを当の象山はどう思っていたのか。「ぞうざん」の読みが後々まで伝わっているところを見ると、むきになって誤りを訂正させなかったようだ。
 この本にはその後にもう一つ面白いエピソードが紹介されている。
「されば嘉永七年の正月米使ペルリが再び渡来せるにより、幕府は横浜に応接所を開き、松代藩の士卒をして之れが警固の任に当たらしめた時のことである。其陣屋の前をペルリが通行せんとし、軍議役として控えておられた象山先生の前に来ると、何を思ったのか丁寧に会釈していったということである。当時川路聖謨という幕府の役人が象山先生に向かって、『日本人でペルリから会釈されたのは貴殿ばかりでござる』と言ったという。これは先生の風采が如何にも立派であり、且つ侵し難い威厳を備えておられたから、ペルリも日本の偉い人物に相違ないと直覚した結果、自ずから敬意を表して過ぎたものと思われる。」
このことについて、象山は妻の順子にこのような手紙を送っている。
「一昨々日ペルリ上陸候せつも通りかけ我等の前を過ぎ候時一寸会釈して通り申候。ペルリは一通りの人には会釈はいたさぬよしに候所、右様のこと故人々かれこれ申候と見え申候」
天下の象山ともあろう人が「人々かれこれ申候」などといささか得意げに手紙を送るところなど、稚気愛すべきと言ったらいいのか、なんとも俗っぽいといったらいいのか、海舟などはそんなところが鼻についたのかもしれない。

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