ある二本松藩士のこと

南宜堂

2013年06月17日 23:56

 だいぶまえにブログに書いた記事です。二本松少年隊に関連しているので載せてみました。

 戊辰戦争を戦ったのは会津だけではない。仙台も米沢も会津救済のために奥羽越列藩同盟を結成して、ともに戦ったのである。もっと小さな藩も大藩に引きずられて参戦している。戦後は等しく賊軍となった。 会津藩の下北への配流とその悲惨な状況は繰り返し語られるが、程度の差こそあれ奥羽の諸藩は悲惨な明治を迎えたのである。これから語ろうとする渡辺敏と浅岡一の兄弟は、ともに二本松藩士であった。偶然にも二人とも教育者への道に進み、黎明期の信濃教育の発展に尽くした。
 二本松市のホームページから渡辺敏の経歴を引用したものを下に掲げておいたが、渡辺敏の経歴について、戊辰戦争前後の時代にもう少し肉付けして考えてみたい。
 彼は亡くなる2年前の昭和3年には故郷二本松を訪れ、「戊辰の戦死群霊弔祭」に出席して講演をしている。その筆記録がガリ版刷りで残されている。それによると、「私は幼名浅岡信四郎と云うて浅岡段助の四男であります 今は渡辺敏と申し曾祖父竹窓以来三代儒者を勤めました 其三代目の渡辺新介の後を継いで渡辺敏と申します 実父も養父も処と時日は違いますが共に戊辰の戦に戦死致しました 私は其時二十二歳でありました」
 元治元年、禁門の変に際し、敏は弓組として出兵したが、すでに平定されており、富津台場の在番を命ぜられる。しかし「其海辺は遠浅にて外国船の往来は近くて二十余町より四五十町沖を通過するのでありますから之を食い止めるに我が弓矢は何の役にも立ちませず然らば大砲はと云えば我が大筒方の為す所を見れば其の役に立たぬ事は弓矢と殆ど変りないのであります」
 沖に停泊する外国船の攻撃に対し、二本松の弓組も大筒方も、富津の警備には何の役にも立たなかったのである。水戸藩が幕府に献上した大砲が台場には据え付けられてあったが、誰も取り扱う術を知らず,相変わらず二本松から曵いてきた大筒で訓練をしている有り様であった。
 こんな時代遅れの装備ではとても外国船との交戦など及びもつかない。そんな状況の中で敏は「武人として国のため君のため藩主のために働くには如何なることを学ぶべきや煩悶懊悩し」ていた。
 翌年になると、浅川安十郎という人が新式の大砲を台場に据え付けに来た。敏は浅川に、自分は弓組を命ぜられて富津に来たのであるが、ここの防御には弓は何の役にも立たない。我が藩の大筒方も新式の大砲を用いようとせずおのが流儀に固執していると、自藩の現状を正直に話し、これからの自分のとるべき道を訊ねた。 
 浅川は、これから砲術を学ぼうとするなら、高島流の砲術を学ぶのが一番だと答えた。もしその気があるのなら自分が身元を引き受けてあげるから江戸に出て来なさいとまで言ってくれたのである。
 敏は浅川の助言に従って、江戸に出て高島流の砲術を学ぶことを決意する。父母と長兄は許してくれたのだが、中兄が反対した。その言い分は、学問をつけても他藩に仕官したり、よその養子になったのでは二本松藩のためにはならないと言うのである。
「畢竟学問でも武芸でも御国の守となり君父ののために其学問も武芸も必要なので然るに学問武術が他国の用をなす様な事では寧ろ学問武芸なきしかずある 一旦事あるに当っては其学問武芸を以て父母に刃を向け君に弓を引く様な事にもならぬ限りでないのである」これが中兄の論理であった。
 結局敏はこの言に逆らえず、江戸遊学をあきらめるのである。そのうち戊辰戦争がはじまり、敏は笹川関の警備を命ぜられる。そして7月29日、二本松城は落城する。
 二本松藩は落城まで勇敢に戦った。それであるのに、戦闘にも加わらず関門の警備だけをしていた自分がいかにも情けなく、まさに慚愧に堪えずという心境で、戊辰50年を迎えてもまだ敏の心は穏やかではなかった。
 しかし、あのとき自分が江戸に出て砲術を学んでいたら、あるいは藩が新しい技術に目を開いていたら、また違う現在があったのかもしれないという思いは敏の脳裏をかすめたのではないだろうか。敏が教育者になろうと決心したのはそんな底流があったからかもしれない。
 司馬遼太郎は、戊辰戦争の勝敗の原因は鉄砲の差だということを言っている。もちろんこの言い方は比喩的なもので、直接に軍備の差だけのことを言っているのではないだろう。そういう科学技術を受け入れるだけの藩の許容度のことであろうと思う。 
 幕末の二本松藩は、渡辺敏の目にはとても攘夷を断行できるだけの軍備があるとは思えなかった。それだけではなく、目の前に新しい技術があっても、それを受け入れるだけの度量をもっていなかったと敏は思ったことだろう。それを阻んでいたのは厳格な身分制度であったと、戦後50年を経て敏は明確に理解した。

 現代の視点から見れば、戊辰戦争というのは封建的な身分制度を解体するための戦争であった。あの時代を生きた人たちの中で、そのことを意識していたものがいたのだろうか。アメリカの制度を見てきた勝海舟や福沢諭吉はわかっていたと思う。西郷隆盛や木戸孝允や坂本龍馬といった下級武士出身のものたちもおぼろげながら意識していたのではないだろうか。
 維新前に凶刃に倒れてしまったが、我が信州の佐久間象山は身分制度の解体までは考えられなかった。会津や仙台や米沢やそして二本松の指導者たちも、封建制度が絶対というところからは一歩も出ることはできなかった。
 渡辺敏が子供たちの教育に熱心に取り組んだのも、古い封建意識により学ぶことを阻まれたという自らの体験があったからであろう。敏は最終的には高等女学校の校長になるのだが、初等教育の重要性を常に強調していたという。さらには、障害者や貧しい家庭の子供にも等しく教育の機会が与えられるように、盲学校や子守学級の創設にも取り組んだのである。

渡辺敏略歴(二本松市ホームページより)
 弘化4年1月28日、藩士浅岡段介の四男として生まれ、幼名を信四郎と名付けられました。弟には、のち同様に長野県教育界で功績を残した浅岡一がいます。6歳から藩校敬学館で学び、12歳で御小姓役に出仕する一方、弓術・槍術・剣術を修めました。
 改名に当り、父は『論語』の中で特に好んだ「言ニ訥(とつ)ニシテ行ニ敏(びん)ナラント欲ス」つまり“口は達者でなくとも、実行は速やかに”から「行フニ敏(はや)シ」と訓じ名付けた、とのちに敏は述懐しています。
 幕末期、本人の知らないままに藩校教授渡辺新介(戊辰戦死者)との養子縁組がなされ、敗戦後、そのことを知りました。士族常禄として支給される、わずか玄米16石(40俵)で養家の4人家族を扶養する生活は苦しく、藩校助教授を勤めるかたわら諸事業に手を出しては失敗の連続でした。

 明治7年(1874)明治維新の最中、「自分の性格は政治家・実業家・武芸家としては適さず、学者として世に立つことが最も当を得」の立志により、教育者の道を歩むため東京師範学校に入学。卒業後、長野県安曇郡大町村仁科学校に赴任し、学校教育をはじめ夜学会開設、職業学校設立建議など、8年にわたり地域教育に尽くしました。

 明治17年に依願退職し帰郷、福島師範学校・若松中学校で教鞭をとりましたが、同20年再び長野県の熱意ある招請により、上水内郡長野学校長(現長野市)に着任。さらに新設された長野県高等女学校(現長野西高校)の初代校長に就任、以来大正5年に70歳で退職するまでの約30年にわたり長野県教育界でその手腕を発揮したのです。

 この間、補習夜学科や晩熟生学級の開設、子守教育所や盲人・唖人教育所の設立などにも尽力。その言動は無私無欲で合理主義に徹底し、全国の模範となった長野県の初等中等教育・障害教育・社会教育、いわゆる“信濃教育”の基盤の確立と発展に大きな功績を残しました。
 大正4年長野高等女学校同協会は渡辺敏彰徳会を組織、また大町小学校には記恩碑建立、さらに文部省教育功労者表彰など、幾多の顕彰・表彰を受けています。

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