愚庵とニコライ神父
同志社のニイジマ・ジョーは函館からアメリカに渡ったようですが、反対にロシアから函館にやってきたのはニコライ堂で有名なニコライ神父です。天田愚庵は、明治になってニコライが設立した神田の神学校に転がり込むことになります。
平藩は二万石減封ながらも存続は許された。藩士たちは生活の再建に向けて活動をはじめるが、灰燼と化した城下での暮らしは厳しかった。
愚庵は上京する。何かあてがあったわけではない。一日玄米三合の捨扶持では故郷にいても野垂死ぬだけと、思いあまっての上京であった。当座の金は兄が出してくれた。まず身を寄せたのが、神田駿河台にできたばかりのギリシャ正教の神学校であった。
「西にも東にも知るよしなければ茫然として宿屋に在るうち、多からぬ旅費は尽き果てたり。詮方なきまでにいたれば詮方のあるものにて、伊藤は下谷の大野某に身を寄せ、五郎(愚庵)は保科保といふ同郷人の世話にて魯西亜の司祭ニコライ氏が建てたる駿河台の希臘教の学校に入りたり。」
ニコライ神父が二度目の来日をして、東京神田駿河台に神学校を建てたのは、明治五年のことである。したがって愚庵の上京もその頃のことと思われる。
日本に最初にギリシャ正教を広めたのは、イオアン・ディミトロヴィチ・カサーツキン、ニコライ神父である。ニコライ神父は文久元年六月、ロシアの函館領事館付の司祭として来日している。
当時まだキリシタンは禁制であった。もちろんギリシャ正教の宣教もできない。禁制下の慶応四年、ニコライは三人の日本人の若者に秘密に洗礼を施した。函館の神官沢辺琢磨、仙台藩の医師酒井篤礼、南部藩士浦野大蔵である。東北地方にギリシャ正教の教会が多いのは、この三人が各地に種を蒔いて歩いたからなのである。
この三人のうち沢辺琢磨だけは東北の人間ではない。彼は土佐藩士であった。前の名を山本琢磨といった。函館の神官沢辺家の婿となって沢辺琢磨になったのである。山本琢磨といえば、テレビドラマ「龍馬伝」にも登場した坂本龍馬の従兄弟である。
山本琢磨は天保六年土佐藩郷士山本代七の長男として生まれている。代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入った。坂本龍馬の父親である。また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。
江戸に出て、鏡心明智流の桃井道場で修行した。「龍馬伝」によると、拾った金時計を質に入れたことから、窮地に追い込まれる。同時期龍馬や半平太も江戸に出ていて、そのことを知るという筋立てになっている。切腹を迫る半平太に対し、龍馬は内密に舟で逃がしてやるというストーリーであった。実際は二人協力して琢磨を逃がしたようである。
東北各地を逃げ回っているうちに、新潟で前島密に出会い、その勧めで箱館に渡った。箱館では剣術の道場を開いていたが、箱館神明宮宮司の沢辺悌之助に認められて娘の婿養子となった。
琢磨がニコライ神父と知り合ったのが箱館であった。神官である琢磨がなぜギリシャ正教に入信したのかについては、龍馬が勝海舟を外国の手先と思い込み、斬り殺すつもりで訪れたというエピソードとよく似た話が伝えられている。
ニコライをロシアの密偵と信じ込んで斬り殺すつもりで訪れたが、ニコライから「ギリシャ正教の教えを知ってからでも遅くはなかろう」と諭され、毎日教えを聞きに通ったという。そうするうちに、すっかりニコライに心酔するようになり、友人である酒井篤礼らを誘って洗礼を受けた。
わが国におけるギリシャ正教の布教は、沢辺琢磨、酒井篤礼、浦野大蔵によって東北各地で行われた。天田愚庵が、ニコライ神父の神学校に身を寄せたというのも、この東北地方におけるギリシャ正教のネットワークを頼ってのことだったかもしれない。
関連記事