近藤勇の尊王攘夷

南宜堂

2009年10月30日 10:20

 福地源一郎、のちの桜痴が試衛館に近藤勇を訪ねた折、近藤の書斎には開きかけの「日本外史」があったということを書いている。福地は長崎の生まれ、この時は幕府に通訳として採用されていた。維新後は新聞記者となり、東京日々新聞の社長までつとめている。
 頼山陽の「日本外史」は江戸時代のベストセラー、近藤は習字の練習も兼ねて筆写していたようだが、武骨一辺倒と思われている近藤には意外なエピソードである。
 「日本外史」について、いつも引用している「ウィキペディア」の記述は次のようになっている。「江戸時代、頼山陽が著作した日本の歴史書。文政10年(1827年)に山陽と親しかった元老中の松平定信に進呈、2年後に発行された。全二十二巻、漢文体で書かれている。子孫の頼惟勤等により、岩波文庫上中下巻で書き下し体(文語体)で刊行され、現代語訳は「織田氏」までの<一・二・三・五・六・十一・十三・十四巻>の8章が、頼惟勤をまとめ役に『日本の名著20 頼山陽』中央公論新社で出された。
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。
幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた。」
 私たちは新選組というと、亡びゆく幕府に殉じた悲劇のヒーローとして、情緒面でのみとらえてしまっているのだが、彼らの中には確固とした政治思想というものがなかったのだろうか。近藤勇の愛読書が「日本外史」であるというエピソードは、そのひとつの答えのようにも思われる。彼なりに激動の時代の思想を学んだのではないだろうか。
 幕藩体制とは、徳川幕府を頂点とし、各藩がその下に並ぶピラミッド型の体制なのであるが、幕末になるとそれが大きく崩れてくる。幕府が弱体化したのと薩摩や長州といった雄藩が実力を蓄えてきたことが大きな原因だが、もうひとつ忘れてはならないのは、朝廷の存在である。
 京都の朝廷は徳川幕府の政策によって、経済的には力を持たず、政治的な発言も許されなかった。しかし、幕末になって勃興した尊王攘夷思想により、その存在はにわかに大きくなったのである。相対的に徳川幕府の地位は貶められ、幕府は朝廷からの委任によって政治を行っているにすぎないという思想が蔓延した。
 この尊王攘夷思想が、徳川御三家の一つ水戸藩によって学問的に深められ、「水戸学」として普及したというのも皮肉な話である。しかし、水戸学の始祖ともいうべき徳川光圀の尊王攘夷は、必ずしも将軍家を否定するものではなかったようである。時代は徳川氏で安定しており、天皇はまさに形而上的な存在として奉られていたのである。
 しかし、徳川氏の支配力は相対的に弱まり、変わって台頭してきた西南の雄藩は、天皇の持つカリスマ的な力を政治的に利用しようとしたのである。
 この時代、誰もが尊王攘夷であった。徳川将軍家はもちろんのこと、新選組でさえも尊王攘夷であったのだ。たた、それぞれが尊王攘夷という思想をそれぞれの都合で自分なりに解釈していたにすぎない。

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