我日本武士の気風を傷うたるの不利
さらに、福沢は維新後の海舟が薩摩・長州のなど敵国の人士と並んで顕官に就いたことについても批判の矛先を向けている。
百歩ゆずって、江戸城の明け渡しが仕方なかったにせよ、維新後に新政府に出仕したことは「必ずしも窮屈(きゅうくつ)なる三河武士(みかわぶし)の筆法を以て弾劾(だんがい)するを須(ま)たず、世界立国(りっこく)の常情(じょうじょう)に訴(うった)えて愧(はず)るなきを得ず。啻(ただ)に氏の私(わたくし)の為(た)めに惜(お)しむのみならず、士人社会風教(ふうきょう)の為(た)めに深く悲しむべきところのものなり。」というのである。
福沢の勝批判は、幕府崩壊時と新政府に出仕したことへの二重の意味での身の処し方の批判である。どんな見識を持っているにせよ、幕臣として徳川の禄を食んでいる身である。三河以来続いた徳川という共同体が危機に瀕したといって、何の抵抗も示さず降伏してしまうのは、その瘠我慢の精神において情けないというのである。
福沢がここでいっている瘠我慢とは、独立心と言い換えてもいいのではないだろうか。国と国が分かれ、互いに主張をもって立っている状況にあって、その国の存続を支えているものは国民の独立心なのであると。その国が危機に瀕した時、簡単に降参して軍門に下ってしまうということは、独立心を放棄することである。
勝海舟が行った江戸城の無血開城というものは、徳川氏の独立を著しく損した行為であって、後世の歴史のためにも断じて為すべきではなかった。「すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟(さと)り、敵に向(むかっ)てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自(みず)から家を解(と)きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風(きふう)を傷(そこな)うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償(つぐな)うに足らざるものというべし。」と福沢は断じている。
だからといって福沢が佐幕論者であり、心から徹底抗戦を主張していたかというと、徳川瓦解時の福沢の様子を見ているとそんな素振りはまったくなく、「幕末に勤王佐幕の二派が東西に立ち分れているその時に、私はただ古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、もとより幕府に感服せぬのみか、コンナ政府は潰してしまうが宜いと普段気焔を吐いていた」のである。
しかし、鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜が江戸に帰ってくると、「幕府の人は勿論、諸方の佐幕連がなかなか喧しくなって議論百出、東照神君三百年の偉業は一朝にして捨つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、(中略)薩長の賊軍を東海道に迎え撃たんとする者もあれば、軍艦をもって脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促し、諌争の極、声を放って号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であった」のである。
この「瘠我慢の説」は、明治24年における福沢諭吉の国家観ともいうべきものを下敷きにして述べられており、それに即していえば、徳川幕府はこのような倒れ方をすべきであったということを、幕府を代表して交渉にあたった勝海舟の批判を通して展開したものであるということができる。
福沢の勝批判の根幹は、勝海舟が日本の行く末の舵取りを間違えたということではなく、「我日本武士の気風を傷うたるの不利」に対しての批判なのである。
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