歴史を俯瞰する
歴史とは過去に起こった事象であり、歴史を知るとは、その事象をさまざまな方法により解明し本質に迫ることである。しかし、その時の私たちの視点は現代にある。時代は続いているとはいえ、そこには時間という長い三次元空間が横たわっているのである。
よく司馬遼太郎の歴史小説について、高いビルの屋上から俯瞰するように時代を描いているということがいわれるが、それはあたかも現代という高みから三次元空間を隔てて過去という時代を俯瞰しているということであるとも言えるのである。
当然のことながら、ビルの屋上から眺めている私たちは現代にいるわけだから、現代の価値基準をもって地上で展開している事象を見、そして判断をくだす。歴史のとらえ方としてその方法は果たして正しいのだろうか。もっとほかの方法、例えば従軍記者のように、生起している事象に寄り添って、その時代の価値基準で理解していくという方法もあるのではないか。
例えば戊辰戦争である。歴史を俯瞰するという立場からは、幕府や藩を解体して欧米に対抗できる中央集権国家をつくろうとしていた薩摩や長州と、幕藩体制を守り、身分制度を維持しようとしていた幕府や会津の戦いという見方ができる。
結果として、薩摩や長州を中心とした勢力が勝利をおさめた。もし幕府が勝ち、幕藩体制が維持されていたならば、現代の日本の繁栄はなかったとも言われる。これをもって薩長が正しかったのだと判断していいものか。
一方で、先ほどの従軍記者の視点で戊辰戦争をとらえてみると、果たして薩摩や長州の指導者たちのなかにそんな先まで見通して戦ったものがいたのかという疑問がわくのである。東北の正義を主張する人たちはこんな見方をする。あの戦争は薩長による討幕戦争である。天皇はそのために玉として利用されたのだ。義を重んじた東北こそが正義なのだと。はては奥羽諸藩は東北政府を指向していたとまで、その主張はエスカレートするのである。
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