2012年06月24日

磔茂左衛門

松代藩主に就こうとした真田信利は信之の嫡男である信吉の子であるが、この人は領民にはすこぶる評判の悪い殿様であった。
沼田藩は石高三万石であったが、信利は寛文元年から翌年にかけて自らの領地である利根、吾妻、勢多三郡百七十七ヶ村の検地を強行し、その石高を十四万四千石に改めた。これにより藩の歳入は大幅に増加したが、これは領民にとっては大きな負担となった。さらに加えて、川役・山手役・井戸役・窓役・産毛役といった雑役を次々と課し増収をはかったという。
その取り立ては苛烈で、滞納する者の家には役人が押し掛け、翌年の種籾までも取り上げたという。それでも足りない家があれば人質を取り、完納するまでよその村に預けて奴隷のようにこき使ったり、水牢に入れられるものもあった。
信利がこれほどまでの圧政をしいた理由について、『松代町史』は「性豪奢を好み、濫に城郭を改修し、或は淫楽に耽り、甚だ不行跡の振舞多く」と、もっぱら信利の性癖にそれを求めているが、この時代藩の歳入を増やす政策は、幕府の御用などで財政事情が悪化した藩では普通に行われており、沼田だけが特別ということではなかった。しかし、信利の場合は幕府の権力者である酒井忠清が親戚ということで、幕府もそれを諌めることはできなかった。
この悪政により領民が塗炭の苦しみにあえいでいるのを見過ごすことができずに立ち上がったのが月夜野村の百姓茂左衛門であった。茂左衛門は、田三段三畝二十二歩、畑一町五段二十四歩、屋敷二反二畝二十九歩を持つ中農であった。
茂左衛門はまず老中酒井忠清に駕籠訴を企てたが、これは忠清が信利の親戚でもあり、受け取られることはなかった。そこで茂左衛門は一計を案じ、訴状が直接将軍の手に渡るように工夫した。この辺の事情は芝居を見るような話で、にわかにはすべて信じられないが、上野寛永寺座主輪王寺宮から訴状は将軍綱吉のもとに届けられた。
将軍はこれを読み、直ちに密偵を沼田領に派遣し事の真偽を確かめた。果たしてこの訴状の内容は間違いないということになり、信利は城地を没収の上改易となった。時に天和元年十一月のことであった。
茂左衛門はこの間信州に潜伏していたが、信利改易のことを知り、これで自分の役目も終わった、一度家族の顔を見たら自首しようと月夜野に帰った。一晩家族と別れを惜しみ、翌朝家を出たところを張り込んでいた捕吏に捕えられた。
茂左衛門に同情する役人もあったが、越訴の罪は軽からずと、茂左衛門は磔、妻は打首とされ、貞享三年十一月五日利根川の河原において処刑された。
これより先、沼田の百姓たちは何とか茂左衛門の命を助けられないかと、代表を江戸に送り助命の嘆願を行った。幕府では評議の結果願いは聞き届けられることになり、赦免状を持った使いを早馬で沼田に遣わしたが、死者が沼田に入った時は既に処刑が行われた後であった。
茂左衛門の勇気ある行動に感激した沼田の人々は、刑場の跡に地蔵尊を建立して、その霊を弔った。この地蔵尊、誰言うともなく茂左衛門地蔵尊と呼ばれるようになった。その後、千日の供養に月夜野に千日堂を建立し、地蔵尊を安置した。これが今に残る千日堂である。
佐倉惣五郎と並んで名高い磔茂左衛門の伝説の概要はこういうことであるが、細部に異同はあるものの、信利が改易になったのも茂左衛門が磔になったのも、確かにあったことである。
茂左衛門に先立って、もう一人信利の暴政を幕府に訴え出た者があったことを記しているのは、「日暮硯紀行」の著者奈良本辰也である。その人は沼田領政所村の庄屋松井市兵衛である。市兵衛もまた磔となったのだが、この人のことは茂左衛門の陰に隠れて忘れられているようだと、奈良本は言う。そして、市兵衛の行為にももっと賞賛が与えられてのいいのではないかとも。
磔茂左衛門


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Posted by 南宜堂 at 21:16│Comments(0)松代

 
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