2012年07月19日
斎藤真一展
上杉謙信の春日山城と松平忠輝の福嶋城とそして高田藩の高田城と駆け足で巡ってきた。春日山城は団体で訪れる人も多いようで、おもてなし隊なる武将やお姫さまの衣装を来た若い人が愛想を振りまいていた。今はどこもこんな感じなのだろうか。
福嶋城趾は佐渡行きのフェリー乗り場の近くにあるが、碑が建っているだけで、痕跡はない。私が行った時は誰もいなかった。松平忠輝が松代から移った城だが、間もなく高田城をつくってそちらに引っ越している。波の音がうるさくて眠れないからだというのが理由だと伝えられているが、忠輝というのはそんなにわがままな殿様だったのだろうか。
高田城趾には博物館や図書館があって市の文化センターのようになっているが、その中の小林古径美術館では斎藤真一の展覧会が開かれていた。斎藤真一は瞽女をよく描いた作家で、ずいぶんと前に亡くなっている。越後瞽女の本拠地は高田で、ここだからこそ行われている展覧会なのだろう。平日の昼間ということもあろうが、客は私一人で、ゆっくりと見せていただいた。
瞽女については、盲目の旅芸人であること、何人かのグループで旅を続け、門付けや時にはお座敷に呼ばれその芸を披露し、その報酬で生計を立てていたというくらいの知識しかないのだが、今はもういなくなってしまっている。小さい時に親方のもとに引き取られ、芸を仕込まれるのだが、一生結婚することは許されなかったのだという。
無形の文化財だから、何とかその芸を残したいという動きがあるようだが、瞽女の芸というのはその過酷な日常の中から生み出されたものだから、形だけ残してみても意味がないように思う。
斎藤真一の絵は、赤や黒を好んで使っていて暗い中から湧き上がる情念のようなものを感じるのだが、平穏無事な毎日が正常だという感覚からはなかなか入っていけない世界だろうとは思う。
福嶋城趾は佐渡行きのフェリー乗り場の近くにあるが、碑が建っているだけで、痕跡はない。私が行った時は誰もいなかった。松平忠輝が松代から移った城だが、間もなく高田城をつくってそちらに引っ越している。波の音がうるさくて眠れないからだというのが理由だと伝えられているが、忠輝というのはそんなにわがままな殿様だったのだろうか。
高田城趾には博物館や図書館があって市の文化センターのようになっているが、その中の小林古径美術館では斎藤真一の展覧会が開かれていた。斎藤真一は瞽女をよく描いた作家で、ずいぶんと前に亡くなっている。越後瞽女の本拠地は高田で、ここだからこそ行われている展覧会なのだろう。平日の昼間ということもあろうが、客は私一人で、ゆっくりと見せていただいた。
瞽女については、盲目の旅芸人であること、何人かのグループで旅を続け、門付けや時にはお座敷に呼ばれその芸を披露し、その報酬で生計を立てていたというくらいの知識しかないのだが、今はもういなくなってしまっている。小さい時に親方のもとに引き取られ、芸を仕込まれるのだが、一生結婚することは許されなかったのだという。
無形の文化財だから、何とかその芸を残したいという動きがあるようだが、瞽女の芸というのはその過酷な日常の中から生み出されたものだから、形だけ残してみても意味がないように思う。
斎藤真一の絵は、赤や黒を好んで使っていて暗い中から湧き上がる情念のようなものを感じるのだが、平穏無事な毎日が正常だという感覚からはなかなか入っていけない世界だろうとは思う。
Posted by 南宜堂 at 10:55│Comments(0)
│雑記