2011年07月22日
毎日ヒマでも
さて、今日はまたまた古本屋についてのお話です。例の山井書店(と言われても何のことやらわからないが方は、このブログの「理想の古本屋」の項目をご覧ください)なのだが、つげさんも言うように、寝ながら店番しているので客も寄りつかない。「それでもどうにか生活しているから不思議だ」ということで、山井書店は一体どうやって生活しているのだろうかという問題。
まだこの漫画が描かれた時代はネット販売ということはなかったのでこれはバツ。業者間の取引、つまりブローカーのようなことをして稼いでいるというのはあり得る。あるいは、先代店主の山井一郎氏が貴重な古書をたくさん持っていて、それをコレクターに売りながら生活している。
山井書店ほどではないにしろ、古本屋の店主というのは苦虫をかみつぶしたり憂鬱そうな顔をしている者が多いから、何を好きこのんでこの商売をやっているのですかと思わず聞きたくなってしまうという経験をお持ちの方もいるのではないか。あるいは、いつ行っても客がいないけれどこれで経営は成り立っているのかといらぬ心配をしてしまう古本屋もあったりするのである。さらに怖いのは、訪れる度常に同じ本が同じ場所にある古本屋、まったく動いていないのである。
事実は小説より奇なりで、山井書店にいくつも輪をかけたような店があるのがこの業界なのである。どうもこの業界は資本主義の法則から外れた場所で動いているような店があるのだ。ただし大多数の古書店の名誉のために一言申し添えるが、山井書店のような店もあるということである。まあ、中には物好きな方もいて、そんな店ばかりまわって冒険している人もいる。
そんな資本主義の法則から外れた場所にあるような地方の古本屋業界に、ここにきて参入が相次いでいるというのが長野市なのである。今回の岡崎武志さんのルポにはそこら辺りの謎解きを期待したのだが、残念ながらそのことには触れられていなかった。
以前にこの欄で不況のせいだとか、30代の人たちは自立心のが強いからとかいろいろと原因を並べてみたが、「なぜ長野で」とか「なぜ古本屋なのか」という疑問の答えにはなっていなかった。「なぜ長野で」という疑問には答えることができそうだ。「門前暮らしのすすめ」というグループが、空き家の見学会や相談を行っていて、その斡旋でこのあたりに住むようになった人たちが何人かいるようなのだ。
それでは、彼らはなぜ古本屋をやろうと思ったのだろう。全国的には書店も古書店も減少傾向にあるというのに長野だけ増えているのである。私は彼らと顔なじみだから直接聞いてみればいいのだろうが、もしかしたら彼らとてそこらへんのところはうまく説明がつかないのかもしれない。そもそもこの私がなぜ古本屋をやってるのか説明できないのだ。
これも前に書いたことだが、古本屋の棚には時代の断片が転がっている。そういうものを探して歩くのが好きだというのがこの商売続けていられるいちばんの原因なのかもしれない。光風舎は2人の共同経営の店である。それぞれがそれぞれの生きた環境の中から、心にひっかかりのあるものを探してきたというのがこの店のコンセプトらしきものなのかもしれない。だから本だけではなく、レコードがあったりCDがあったりビデオがあったりする。そういうものをおもしろがって再発見しに来てくれる人がいれば、その人が私たちの店のお客さまなのだ。
まことに子供じみた話になってしまうが、古本屋というのは空間の中に自分のワンダーランドを作って、そこに座っていることで幸せを感じているような存在ではないだろうか。だから斜陽といわれても、お客が少なくとも何とかやっていられるのだ。
まだこの漫画が描かれた時代はネット販売ということはなかったのでこれはバツ。業者間の取引、つまりブローカーのようなことをして稼いでいるというのはあり得る。あるいは、先代店主の山井一郎氏が貴重な古書をたくさん持っていて、それをコレクターに売りながら生活している。
山井書店ほどではないにしろ、古本屋の店主というのは苦虫をかみつぶしたり憂鬱そうな顔をしている者が多いから、何を好きこのんでこの商売をやっているのですかと思わず聞きたくなってしまうという経験をお持ちの方もいるのではないか。あるいは、いつ行っても客がいないけれどこれで経営は成り立っているのかといらぬ心配をしてしまう古本屋もあったりするのである。さらに怖いのは、訪れる度常に同じ本が同じ場所にある古本屋、まったく動いていないのである。
事実は小説より奇なりで、山井書店にいくつも輪をかけたような店があるのがこの業界なのである。どうもこの業界は資本主義の法則から外れた場所で動いているような店があるのだ。ただし大多数の古書店の名誉のために一言申し添えるが、山井書店のような店もあるということである。まあ、中には物好きな方もいて、そんな店ばかりまわって冒険している人もいる。
そんな資本主義の法則から外れた場所にあるような地方の古本屋業界に、ここにきて参入が相次いでいるというのが長野市なのである。今回の岡崎武志さんのルポにはそこら辺りの謎解きを期待したのだが、残念ながらそのことには触れられていなかった。
以前にこの欄で不況のせいだとか、30代の人たちは自立心のが強いからとかいろいろと原因を並べてみたが、「なぜ長野で」とか「なぜ古本屋なのか」という疑問の答えにはなっていなかった。「なぜ長野で」という疑問には答えることができそうだ。「門前暮らしのすすめ」というグループが、空き家の見学会や相談を行っていて、その斡旋でこのあたりに住むようになった人たちが何人かいるようなのだ。
それでは、彼らはなぜ古本屋をやろうと思ったのだろう。全国的には書店も古書店も減少傾向にあるというのに長野だけ増えているのである。私は彼らと顔なじみだから直接聞いてみればいいのだろうが、もしかしたら彼らとてそこらへんのところはうまく説明がつかないのかもしれない。そもそもこの私がなぜ古本屋をやってるのか説明できないのだ。
これも前に書いたことだが、古本屋の棚には時代の断片が転がっている。そういうものを探して歩くのが好きだというのがこの商売続けていられるいちばんの原因なのかもしれない。光風舎は2人の共同経営の店である。それぞれがそれぞれの生きた環境の中から、心にひっかかりのあるものを探してきたというのがこの店のコンセプトらしきものなのかもしれない。だから本だけではなく、レコードがあったりCDがあったりビデオがあったりする。そういうものをおもしろがって再発見しに来てくれる人がいれば、その人が私たちの店のお客さまなのだ。
まことに子供じみた話になってしまうが、古本屋というのは空間の中に自分のワンダーランドを作って、そこに座っていることで幸せを感じているような存在ではないだろうか。だから斜陽といわれても、お客が少なくとも何とかやっていられるのだ。
Posted by 南宜堂 at 08:22│Comments(0)
│古本屋の日々