2012年04月21日
古本屋と井月と 3
いつか、山井書店のことを理想の古本屋だと書いたことがある。その想いは今も変わらないが、世の若い古本屋さんたちの活動を見聞していると、そういうことを大きな声で言ったのではまずいのではないか、そんな風に思えてきた。
今の若い古本屋さんたちは、他にやれることがないから古本屋になったのではなく、自己実現の場として古本屋さんを選んだという人たちであるようだ。私たちの世代というのは、誠に面倒な話なのだが、イデオロギーのクビキのようなものにいつまでたっても捉えられているようなところがある。体制とか反体制とかいった枠で自分の位置を見ているのである。
甘ったるい唄だが「いちご白書をもう一度」というのがある。説明しやすいので引用すると、「就職が決まって髪を切ってきた時、もう若くないさと君に言い訳したね」なのである。髪を切る(気持ちの悪い話かもしれないが、当時の若者の多くは長髪だった)という行為が反体制から体制に移行する儀式のようなものだったのだ。そしてそれは、言い訳しなければならないような後ろめたいことだった。
そんな団塊世代が、年を取って不況で人員整理されたり、勤めていた会社が潰れたりして否応なく自分の生活は自分で責任を持たなければならなくなった時、もう若くはないけれど、今度は体制から脱落してみようと思ったとして、思いついた仕事が古本屋だったという人もいるのである。
そういう古本屋というのは、あまり表にししゃり出ずに、山井書店のごとくひっそりとやっているのがいいのかもしれない。
今の若い古本屋さんたちは、他にやれることがないから古本屋になったのではなく、自己実現の場として古本屋さんを選んだという人たちであるようだ。私たちの世代というのは、誠に面倒な話なのだが、イデオロギーのクビキのようなものにいつまでたっても捉えられているようなところがある。体制とか反体制とかいった枠で自分の位置を見ているのである。
甘ったるい唄だが「いちご白書をもう一度」というのがある。説明しやすいので引用すると、「就職が決まって髪を切ってきた時、もう若くないさと君に言い訳したね」なのである。髪を切る(気持ちの悪い話かもしれないが、当時の若者の多くは長髪だった)という行為が反体制から体制に移行する儀式のようなものだったのだ。そしてそれは、言い訳しなければならないような後ろめたいことだった。
そんな団塊世代が、年を取って不況で人員整理されたり、勤めていた会社が潰れたりして否応なく自分の生活は自分で責任を持たなければならなくなった時、もう若くはないけれど、今度は体制から脱落してみようと思ったとして、思いついた仕事が古本屋だったという人もいるのである。
そういう古本屋というのは、あまり表にししゃり出ずに、山井書店のごとくひっそりとやっているのがいいのかもしれない。
Posted by 南宜堂 at 01:31│Comments(0)
│古本屋の日々