2012年05月05日

本日営業

昨夜遅くに長野に帰ってきた。新潟は一日中雨だったが、長野は降ったりやんだりの天気だったようだ。さて本日は光風舎営業します。
昨日新潟で、伴百悦という会津藩士の墓を訪れた。前日に歴史仲間のI氏から伴についての発表があったので、その人となりについてはわかっていた。I氏はこういう集まりがあるたびにテーマを決めてパワーポイントを用いて皆の前で研究発表をしてくれる。
伴の活躍は戊辰戦争終結後からはじまる。新政府軍の執拗な攻撃で、降伏後の会津城下には藩士たちのむごたらしい屍体が横たわっていた。新政府軍はその埋葬をゆるさなかった。伴はこの状況に心を痛めていたが、やがて民生局ができてようやく埋葬が行われることになった。しかしその方法はとても人道的とは言い難いもので、大きな穴を掘ってそこに屍体を投げ込むということが平気で行われていた。
伴は藩士の身分を捨てて、自ら埋葬の仕事を申し出た。だが、新政府軍の役人は相変わらず横暴で、会津藩士の屍体をモノ同然に扱って平気でいた。伴はそんな役人たちの屍体を侮辱する行為が許せなかった。ある日、役人の一人を襲って斬り殺し、自らは新潟に逃げた。新政府軍の執拗な探索に、その潜伏先が見つけられ、捕まって伴は死罪となった。
I氏の発表は戊辰戦争に関連したものがほとんどだが、取り上げる人物は指導者たちや華々しく戦ったものたちではなく、伴のように目立たないところで仕事をした人たちだ。その辺にI氏のこだわりがあるような気がする。
さて戊辰戦争である。この戦争は新潟と東北で数多くの犠牲者を出した。最近知ったことだが、ここ松代藩からも3271人の兵士が動員され、飯山戦争、北越戦争、そして会津攻城戦を戦った。松代藩の近代的な火器が会津落城を早めたともいわれている。
なぜこんな大規模な内戦にまでなってしまったかについては、わたしたちの研究会内部でもさまざまな議論があった。わたしは、東北の諸藩が一人の勝海舟をも出すことができなかったのが大きな悲劇になってしまった原因であると思っている。
勝海舟は西郷隆盛との交渉によって、江戸での戦争を回避した。海舟の非戦の根底にあったのは人道主義ではなく、幕府官僚としての自らの行為への責任であったと思う。江戸が戦火にまみれおびただしい数の犠牲者が出ることは海舟には予測できたろうが、そのことは戦争回避を決意した大きな要因とはならなかったのではないか。外国の脅威・徳川慶喜の助命・旗本や御家人の生活の保障のために内戦は不可であると考え、そのように行動したのである。冷静であった。
一方の奥羽越列藩同盟の指導者たちは、被害者意識とか名誉とか義憤とかいったものにとらわれすぎて、冷静な判断ができなかったのではないか。もちろんそうしたかといって、戦争が避けられたかどうかはわからない。


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Posted by 南宜堂 at 13:35│Comments(0)雑記

 
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