2012年05月20日

「シリーズ藩物語藩」を脱稿

「シリーズ藩物語松代藩」 をようやく書き上げる。250枚、約1月半かかった。後はコラム・注釈・図版等、一息ついた感じだ。
わたしの祖先はどう考えても百姓だから、どうも武家である松代藩の歴史というのは書くのに抵抗があったが、明治以降の近代日本を牽引してきたのはやはり武士階級であった。「坂の上の雲」の秋山兄弟は松山藩士だし、三菱の岩崎弥太郎だって落ちぶれてはいたものの、郷士であった。松代藩の場合も然り、横田秀雄も和田英も松代藩士の子弟であった。
日本の官僚機構は明治時代に作られたものだが、これを担ったのもやはりかつての武士階級であった。江戸時代の百姓というと、絞られるだけ搾取をされていたような印象を受けるが、松代藩の場合を見ると、そうとばかりは断定できない。いよいよとなると百姓たちは実力行使に訴えた。一揆である。もちろんこれには厳罰が待っていて、首謀者は死罪ということになるが、それと引き換えに要求はある程度認められたのである。藩としても幕府の目が怖かったのだろう。うまく百姓たちを統治できなければ取り潰しということもありえた。
「日暮硯」で有名な恩田木工は、そんな中で百姓たちに納得ずくで従わせるという方法を取った。仁政ということが言われるが、木工は決して今でいうところの百姓たちの権利を認めた民主主義者ということではなく、どちらかと言うと上手に統治した合理主義者であったと思う。
こういう意識は現在の官僚たちにもあるようだ。国民のために尽くすという意識ではなく、いかに統治するか、その技術論に長けた者が優秀な官僚ということになるのだろう。一方で政治家というのは、国民から選挙で選ばれるという洗礼があるわけで、甘言を弄したり、恫喝したりして人気取りを図らなければならない。それに踊らされる国民も馬鹿にされているわけで、江戸時代の百姓を笑えない。彼らには生きなければならないという切実な思いがあって領主に要求を叩きつけていたのだから。

そう言えば、ウチの祖先は相当の高貴な家柄だと死んだ父親が言っていたことがあった。ところが、何代か前の祖先が博打好きで、借金のかたに家の系図を取られてしまったのだという。それで家系をたどれなくなってしまったのだそうだが、そういう放蕩なところは子孫にまで伝わったようだ。


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Posted by 南宜堂 at 08:22│Comments(0)雑記

 
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