2012年05月24日

明治開化の相関図

今日入荷した本の中に「次郎長開化事件簿」(海渡英祐・徳間文庫)というのがあった。明治維新後の次郎長を探偵役に天田五郎とともに事件を解決するというものだ。店に出す前に読ましていただくことにした。
次郎長と愚庵天田五郎のことはこのブログでも何度か書いた。昨年の春所用があって何回か清水を訪れ、すっかり二人のファンになったのである。
幕末維新期の人物の相関関係というのは結構おもしろくて、ひょんなところで関係があったりしている。
次郎長と愚庵を結びつけたのは山岡鉄舟であり、次郎長と鉄舟を結びつけたのは咸臨丸である。そして、愚庵と鉄舟を結びつけたのは小池詳敬だと思う。
小池詳敬は、明治初期太政官に代る国政の最高機関であった正院の大書記をつとめた人物であった。
明治新政府は、成立直後はキリスト教禁止を基本方針としていた。「新政府はこのようなキリスト教禁止政策にもとづいて、キリスト教宣教師らのもとに密偵を潜入させ、その動静を探らせていた。」(大日方純夫「明治新政府とキリスト教」)その指令を出していたのが、政府直属の機関である「正院監部」であった。正院は明治4年に設置されており、それ以前は弾正台が密偵の取締を行っていた。
小池詳敬は正院でこの密偵たちの上にいた。密偵となったのはほとんどが浄土真宗の僧侶たちで、いわゆるスパイとか工作員とかいうイメージで彼らをとらえるべきではないようだ。彼らは自らの信念に基づき、邪教を打ち払うために活動していたのである。
小池に愚庵を紹介したのは石丸八郎は「越前今立郡定友村の唯宝寺の住職の子で、もともとは良厳と称した人物であった。幕末以来、「閥邪運動」、つまりキリスト教排撃運動を展開した人物として知られる。」
政府のキリスト教容認への政策の変更にともなって、正院の存在は有名無実化する。小池詳敬が自らとその配下の辞任を願い出るのは、明治6年のことである。愚庵が石丸や小池に世話になるのはそれ以前、明治5年の頃といわれている。
高橋敏氏は著書「清水次郎長と幕末維新」の中で次のように述べている。「仙台の関係者の紹介か、石丸八郎に寄寓、その後、明治新政府正院大書記の職にあった小池詳敬に養われることになった。」
さらに小池詳敬と山岡鉄舟を結びつけたのが石坂周造であった。
明治6年の冬、仙台にいる愚庵のもとに小池詳敬から書状が届いた。何事かと開いてみればそこには小池が官を辞して石油会社に協力することになった旨が書かれていた。すなわち「迂拙事聊か存ずる旨あり、近日官を辞し、一身を彼の石油会社に投じ、東海山陽より西国辺株主募集の為旅行致す積りなり、足下兼て海内漫遊の宿志あり、同行せられては如何云々」というものであった。
戊辰の戦乱のさなかに行方しれずとなった父母妹を尋ねて諸国を回りたいという愚庵の望みを小池は覚えていてくれたのである。


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Posted by 南宜堂 at 15:57│Comments(0)雑記

 
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