2012年06月28日
真田信之の正室小松殿
真田信之の正室小松殿は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘で、家康の養女となって信之に嫁いだ。信之が父や弟と袂を分かってまで徳川方についた大きな理由が、小松殿が家康の養女であったからだといわれている。信之にとっては理想的な夫人であったようで、それを示すいくつかの逸話が残されている。
慶長五年(一六〇〇)、家康に背いた上杉景勝を討つべく、信之は留守中のことを小松殿に託して、沼田より会津に向かった。下野犬伏で上田より出陣してきた父昌幸・弟信繁と合流したのだが、ここに石田三成からの密書が届いた。有名な犬伏の別れだが、信之は徳川につくことを決めて秀忠の陣に向かう。昌幸・信繁は石田方につくべく上田に戻ることを決めた。
昌幸たちは途中沼田に立ち寄り、小松殿に城での休息を求めた。しかし、小松殿は「この城は伊豆守より出陣の際に預け置かれたものです。たとえ父上であろうと伊豆守の許しがない限り一歩たりともお入れすることはできません」と答えてきた。これには昌幸も「さすがは忠勝の娘、なかなかにあっぱれな振る舞いである。そのことを弁えず城に入ろうとした余が誤りであった。しかし、余に他意があるわけではない。ただ孫の顔を人目みたかっただけじゃ」と使者を送って自らの迂闊をわびた。これを聞いた小松殿は、昌幸と信繁を城下の旅宿に案内し鄭重に饗応したという。
関ヶ原の戦い後の昌幸・信繁の処分に対しても、夫信之を助けて徳川家への橋渡しをつとめるなど内助の功を発揮した。また、高野山に流された後も女性らしいきめ細かい援助をしたとも伝えられている。
小松殿は元和六年(一六二〇)に病を得て鴻の巣(埼玉県鴻巣市)で亡くなっている。墓は勝願寺(鴻巣市)、正覚寺(群馬県沼田市)、芳泉寺(上田市)に分骨して葬られた。信之が松代に移った時に大英寺を創建して霊屋である万年堂を建てた。そのいわれは「千万年も祭祀を絶やすことがない」という意味である。
慶長五年(一六〇〇)、家康に背いた上杉景勝を討つべく、信之は留守中のことを小松殿に託して、沼田より会津に向かった。下野犬伏で上田より出陣してきた父昌幸・弟信繁と合流したのだが、ここに石田三成からの密書が届いた。有名な犬伏の別れだが、信之は徳川につくことを決めて秀忠の陣に向かう。昌幸・信繁は石田方につくべく上田に戻ることを決めた。
昌幸たちは途中沼田に立ち寄り、小松殿に城での休息を求めた。しかし、小松殿は「この城は伊豆守より出陣の際に預け置かれたものです。たとえ父上であろうと伊豆守の許しがない限り一歩たりともお入れすることはできません」と答えてきた。これには昌幸も「さすがは忠勝の娘、なかなかにあっぱれな振る舞いである。そのことを弁えず城に入ろうとした余が誤りであった。しかし、余に他意があるわけではない。ただ孫の顔を人目みたかっただけじゃ」と使者を送って自らの迂闊をわびた。これを聞いた小松殿は、昌幸と信繁を城下の旅宿に案内し鄭重に饗応したという。
関ヶ原の戦い後の昌幸・信繁の処分に対しても、夫信之を助けて徳川家への橋渡しをつとめるなど内助の功を発揮した。また、高野山に流された後も女性らしいきめ細かい援助をしたとも伝えられている。
小松殿は元和六年(一六二〇)に病を得て鴻の巣(埼玉県鴻巣市)で亡くなっている。墓は勝願寺(鴻巣市)、正覚寺(群馬県沼田市)、芳泉寺(上田市)に分骨して葬られた。信之が松代に移った時に大英寺を創建して霊屋である万年堂を建てた。そのいわれは「千万年も祭祀を絶やすことがない」という意味である。
Posted by 南宜堂 at 07:11│Comments(0)
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