2013年02月05日

真田信之12

川中島の戦いと前後して武田信玄は上州への進攻を企てた。その先兵となって働いたのが真田幸隆であった。真田氏と上州吾妻郡は古来より深いつながりがあった。真田の里を貫通する現在の国道一四三号線は、鳥居峠を越えると群馬県吾妻郡嬬恋村である。鎌原氏、羽尾氏など滋野一族ゆかりの豪族も多い。幸隆が海野平の戦いに敗れ、避難して行ったのも上野であった。
 上野にはすでに小田原城主(神奈川県小田原市)の北条氏康が進出していて、天文二十一年(一五五二)に関東管領上杉憲政(のりまさ)を平井城に破っていた。憲政は越後の長尾景虎(ながおかげとら)(謙信)に助けを求めた。これに対し信玄は娘を北条氏政(氏康の嫡男)に嫁がせ、誼(よしみ)を通じていた。上野の攻防もまた信玄と謙信の争いに発展したのである。
 信玄の意を受けた真田幸隆は小県から鳥居峠を越えて上州吾妻(あがつま)(群馬県吾妻郡)に進出した。吾妻郡はかつて幸隆が武田信虎に追われて逃げのびた地であり、古くから滋野一族にゆかりの深い土地であった。幸隆がまず標的としたのが岩櫃城であった。岩櫃城主斎藤憲広は関東管領上杉氏に属し、周辺の豪族たちの間で争いを繰り返していた。
吾妻郡の鎌原氏と羽尾氏は共に滋野一族でありながら領地を巡って激しく対立していた。それが斎藤憲広や真田幸隆の介入を招くことになった。永禄五年(一五六一)羽尾幸世は斎藤憲広の助けを得て鎌原城を攻めた。鎌原氏はたまらず信濃に逃れたが、これを助けたのが真田幸隆であった。この二年前の永禄三年、鎌原幸重は真田幸隆を介して武田信玄に臣従していたのである。
 幸隆は早速に吾妻郡に出兵し、鎌原城を奪回する。永禄六年には斎藤憲広の岩櫃城を攻めた。難攻不落の城と見られていた岩櫃城は、幸隆の計略により城に籠もる家臣の内応を招き攻め落とされるのである。
その後、永禄八年には嶽山城も落ち、斎藤氏の勢力は吾妻郡から一掃された。 そんな戦いの日々の中で信幸、幸村の兄弟は生まれた。二人の父武藤喜兵衛、後の真田昌幸は当時武田信玄の足軽頭であったから、信玄に従って関東の戦陣にあった。信玄が佐久の城を次々と落としたのは、北信濃への進攻の道筋をつけるものであったが、同時にこれは上州への進出の足がかりとなるものでもあった。甲府から上州へ行くためには、昔も今も信州の佐久に出て、内山峠や十国峠、碓氷峠を越える。峻厳な山が邪魔をして通行を阻んでいるのである。
 永禄九年九月、これは信幸の生まれた年であるが、長野氏が守る箕輪城が武田信玄によって落城した。この戦いには真田昌幸も参戦している。海野平の戦いに敗れた真田幸隆が頼った長野業正は既に没していて、この時の当主はまだ幼い業盛であった。
 武田信玄は前年から西上野に進攻し、倉賀野城などを陥れていた。武田軍の激しい攻撃にそれでも箕輪城は数ヶ月耐えたが、とうとう九月二十九日に落城した。さらに元亀三年(一五七二)白井城が落ち、武田氏の先兵として幸隆は着々と北上州に地歩を固めていった。そして、幸隆は次の標的を沼田城に定めた。
岩櫃城址
真田信之12


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Posted by 南宜堂 at 21:58│Comments(0)真田十勇士

 
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