2013年06月03日
信濃一国を与えてもよい
慶長19年(1614)12月18日、豊臣と徳川の間で和議が成立した。その結果大坂城の二の丸、三の丸は埋め立てられることになり、幸村が築いた真田丸も破却された。真田丸というのは、幸村が城の南方に築いた砦で、幸村はここで徳川方の攻撃を防ぐ作戦に出た。真田丸のまわりに空堀や柵を築き、ここに突進する敵に弓や鉄砲で攻撃しようというのだ。作戦は見事に成功し、ほかの砦が破られる中、真田丸だけは敵を一歩も近づけさせなかった。
外堀の埋め立ては幸村をはじめ大坂城にいた外様の牢人たちは強く反対した。しかし、秀頼や淀君はこの条件を受け入れ、外堀埋め立ての工事がはじまった。ところが巧緻ににたけた家康は外堀ばかりか二の丸・三の丸までもどさくさに紛れて埋め立ててしまった。ついには大坂城は本丸だけの裸の城になってしまったのである。
この間にも、大坂でのはたらきのめざましい幸村に、徳川方からひんぱんに勧誘の工作がなされた。その中心となって働いたのは家康の側近本多正純であった。幸村の叔父である真田信尹を使者に、信州で十万石の大名として取り立てるというものであった。さらには信濃一国を与えてもよいという条件もあった。しかし、幸村はこれらの誘いを豊臣への恩顧を理由にことごとく断った(「慶長見聞書」)。
これについて小林計一郎氏は「当時の実情からいって、信尹が真田丸に出掛けていって幸村に面接することは困難だったにちがいない。」(「真田幸村」)と否定的な意見を述べている。「真田三代記」では参謀のような処遇をされている幸村だが、実際は外様でしかも兄弟・親戚がみな東軍の将として参加しているのである。幸村の寝返りを恐れて目付として伊木遠雄が付けられていた。ここで叔父に会うことはもちろん、徳川に寝返るなどできることではなかったというのだ。一方でそういう状況にはあったが幸村がここを死に場所として最期まで戦ったのは「やはり大坂城を死場所として、一方の将としてここで華々しく戦死することを本懐と考えたのだろう。」と結んでいる。
外堀の埋め立ては幸村をはじめ大坂城にいた外様の牢人たちは強く反対した。しかし、秀頼や淀君はこの条件を受け入れ、外堀埋め立ての工事がはじまった。ところが巧緻ににたけた家康は外堀ばかりか二の丸・三の丸までもどさくさに紛れて埋め立ててしまった。ついには大坂城は本丸だけの裸の城になってしまったのである。
この間にも、大坂でのはたらきのめざましい幸村に、徳川方からひんぱんに勧誘の工作がなされた。その中心となって働いたのは家康の側近本多正純であった。幸村の叔父である真田信尹を使者に、信州で十万石の大名として取り立てるというものであった。さらには信濃一国を与えてもよいという条件もあった。しかし、幸村はこれらの誘いを豊臣への恩顧を理由にことごとく断った(「慶長見聞書」)。
これについて小林計一郎氏は「当時の実情からいって、信尹が真田丸に出掛けていって幸村に面接することは困難だったにちがいない。」(「真田幸村」)と否定的な意見を述べている。「真田三代記」では参謀のような処遇をされている幸村だが、実際は外様でしかも兄弟・親戚がみな東軍の将として参加しているのである。幸村の寝返りを恐れて目付として伊木遠雄が付けられていた。ここで叔父に会うことはもちろん、徳川に寝返るなどできることではなかったというのだ。一方でそういう状況にはあったが幸村がここを死に場所として最期まで戦ったのは「やはり大坂城を死場所として、一方の将としてここで華々しく戦死することを本懐と考えたのだろう。」と結んでいる。
Posted by 南宜堂 at 23:52│Comments(0)
│真田十勇士