2013年04月09日

上田合戦

上田合戦 天正十三年八月、徳川方は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉に七〇〇〇の大軍を付け上田を攻めた。対する真田方は二〇〇〇人ほどの兵力であった。この時昌幸は多勢に立ち向かうため将兵はもちろんのこと、旧武田家の家臣たちや百姓たちをも動員したという。
 七〇〇〇の大軍は長瀬河原で千曲川を渡り、国分寺表に押し寄せた。
戦いは国分寺付近の神川の河原を主戦場に行われた。真田軍は、信幸が大将となって出陣したが、一戦を交えたところで退却し、上田城下まで退くとそのまま町の中に身を潜めた。徳川方は勢いに乗じて城門にまでたどり着き、いまにも門を打ち破ろうという勢いであった。
 しかし、これは昌幸の作戦であった。この時昌幸は櫓に登り、甲冑も着けずに家来の祢津長右衛門を相手に碁を打っていたというが、いかに人を食ったような昌幸でもそこまでの余裕はなかったのではないか。
 敵を城門に近づけたところで「頃合いやよし」とばかりにかねて用意の大木を押し寄せた兵めがけて切り落とした。敵兵が混乱の中逃げまどう様を見て、昌幸は五〇〇の兵を率いて討って出た。たまらず逃げ出す徳川方に、今度は背後から信幸が町屋に火を放ち追撃を加えたからたまらない。総崩れとなって国分寺方面に逃げ帰った。さらは神川を渡ろうするところを、信幸はあらかじめ築いておいた上流の堰を切って落とし、多くの敵兵をおぼれさせた。
 これが『上田軍記』などが伝える第一次の上田合戦の模様である。多少の誇張はあるが、徳川方の資料『三河物語』も完敗を認めているので、真田が勝利した戦いであったのは間違いないようだ。この時信幸が沼田の家臣に宛てた書状が残されている。それによると、国分寺において一戦を遂げ、敵兵を一三〇〇余討ち取ったことが記されている。


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Posted by 南宜堂 at 00:40│Comments(0)真田十勇士

 
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