2013年05月16日

真田幸村と楠正成


 映画「蒲田行進曲」に出てくる池田屋の階段は3階くらいの高さがある。しかし、実際の池田屋の2階はこんなに高かったわけではない。当時の建物は残っていないが、写真で見るかぎりは現代の二階建ての建物よりずいぶんと屋根が低い。階段を思いっきり高くしたのは監督深作欣二の美学なのであろうか。もひとつ銀ちゃんこと風間杜夫が映画の中で演じていたのは土方歳三だが、あの階段落ちの現場には土方はいなかった。おおかた片がついてから駆けつけたのが土方たちであった。
 というふうにあちこちあらを探しながら見ていくと、新選組の映画や小説は嘘だらけということになるのだが、私は新選組というのはそんな歴史的な事実と虚構の狭間のようなところで語られればいいと思っている。子母沢寬の『新選組始末記』にもそうとうに作者のフィクションが含まれているようだ。有名なのは沖田総司と黒猫の話だが。それをにわか歴史研究家たちが中途半端な知識を振り回すものだからへんな固定観念ができるのだろう。
 こういう話は新選組に限らず、これから語ろうと思っている真田幸村の大坂の陣における活躍だってそうとう怪しげな歴史的事実がある。そのネタ元は江戸時代に書かれた実録小説「真田三代記」あたりにある。「真田三代記」が書かれたのは元禄時代のことであろうと言われている。元禄時代というと赤穂浪士の討ち入りが有名だが、同時代の人々はこれを快挙として喝采を送った。大坂夏の陣から90年近くの歳月が流れ、太平の時代が続き、元禄の爛熟した文化に人々は酔っていた時代であったわけだが、一方では徳川の政治に対する不満は民衆の間に蔓延し、変わることのない体制にいらついていた時代でもあった。そんな中での赤穂浪士の討ち入りは格好の捌け口となったのではないか。最近の中国の反日デモでは日系の企業が標的となって打ち壊しにあったりしているが、これは中国人民の体制に対する不満の捌け口として日系企業が被害にあっているんだと言われているが、ちょうどこれと同じような現象が赤穂浪士の討ち入りに溜飲を下げた人々の心理の中にあったのではないかと思うのだ。
 同様に「真田三代記」を読んで、人々は徳川家康をさんざんに懲らしめる幸村に喝采をおくることで不満を解消したのであろう。その真田幸村だが、南北朝の英雄楠正成との共通性がよくいわれている。例えば、劇作家山崎正和さんは著書「室町記」の中でこんな風に書いています。

「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれではじまる文部省唱歌にも歌われているように、後醍醐天皇への忠義のために死を覚悟して息子と別れる悲劇的な英雄である正成だがが、一方でその反面、正成のイメージには、どことなく明るい弾みがそなわっていることも事実である。講釈の聴衆が胸躍らせて正成の話を聞きに集まるのは、やはりあの奇策百出の千早城の戦いがあるからだろう。正成の人気はこの点で真田幸村に通ずるものがあり、のちの講談に活躍する怪盗や忍術使いにも共通するものがあるといえる。」(「室町記」)
 楠正成の出自については、その本拠地が修験・山伏の発祥地河内国金剛山の麓であること、またそのゲリラ戦を得意とする戦い方から、葛城山系の山伏・山民となんらかの関わりがあるのではないかということがよく言われている。楠正成の千早城の戦いに比べられるのは、真田昌幸の神川での徳川秀忠との戦いや幸村の大坂の陣での戦いである。そのゲリラ戦さながらの神出鬼没の戦いぶりが、明治になって立川文庫の真田十勇士や忍者の活躍の物語を生んだのであろう。
 もうひとつ楠正成との共通なのは「湊川の別れ」で歌われるように正成と正行
の関係がそのまま幸村と大助の関係になぞらえることだ。
楠公の歌
落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年

-桜井の訣別-

1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か

2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
  汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅

4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん
  早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為

5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を


 幸村もまた、ともに死にたいという息子大助を押しとどめ、豊臣秀頼をお守りしろと命ずる。大助は泣く泣くその場を離れ、大坂城に入り、秀頼を守って戦死する。
 この時によせばいいのに大坂城にお節介な男がいて「おまえは豊臣の譜代でもないから秀頼様に最後までご奉公せずともよいではないか。いまから城を出て落ち延びよ」と言ったのだが、もちろん大助はそれを受け入れず秀頼に殉ずるのである。
真田幸村と楠正成


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Posted by 南宜堂 at 22:02│Comments(0)真田十勇士

 
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