2013年06月02日
真田幸村の素顔
「真田三代記」や「立川文庫」に描かれる真田幸村は、豊臣秀頼の信頼厚い参謀として大坂の陣を指揮し、自らも勇敢にも家康の本陣に斬り込むといった無類の活躍を見せるのだが、実際に真田幸村というのはそんなスーパーマンのような武将であったのだろうか。いくつかの幸村の書いた書状や一緒に戦った武将たちの証言というのが残されているのだが、それを丹念に見ていくとまったく別の幸村像が浮かんでくるのである。
幸村らの九度山での生活は困窮を極めたらしい。特に昌幸が死去した後は経済的にも困窮したが、故郷上田との人の往来もめっきり減って、孤独な毎日を過ごしていたようだ。
そんな折、姉村松殿が嫁いだ先小山田家から歳暮に鮭を贈られてきた。当時上田城下を流れる千曲川では鮭が獲れたのだ。そしてそれは関西では珍しいものであった。これには幸村はいたく感激して次のような返書を認めている。
「返す返す、おぼしめしより、御飛礼忝く候。久々か様の住居にて候へば、何方よりも見舞便状にもあづかり候はんとも存ぜず候。御手前など御心中、更々御志等あるべく候とも存ぜず候。」
大意 かえすがえすもおぼしめしによりお手紙をいただきありがたいことです。長くこのように暮らしていますと、どこからもお見舞いなどいただけるとは思いませんでした。
さらに続いては自らのうらぶれた近況を飾ることなく淡々と記している。
「兎角兎角年之より申候事口惜候、我々なども去年より俄にとしより、事之外病者に成申候、歯なども抜け申候。ひげなども黒きはあまり無之候」
勇敢なイメージとは裏腹に、この書状から読み取れるのは、頭髪は白髪になり、歯は抜け落ち、病を気にかける初老の幸村の姿である。
そんな弱音を正直に書状にしたためた幸村だが、大坂城からの豊臣秀頼の使者の頼みに入城を決意する。「真田三代記」が伝えるのは豊臣の恩顧に報いるためということになっているのだが、そうではあるまい。幸村は豊臣に恩顧を感じるような立場にはなかった。舅の大谷吉継も妻であるその娘ももうこの世にはいないのだ。
もちろん目の前に積まれた黄金は十分に魅力的であったろうがそれだけではあるまい。
幸村らの九度山での生活は困窮を極めたらしい。特に昌幸が死去した後は経済的にも困窮したが、故郷上田との人の往来もめっきり減って、孤独な毎日を過ごしていたようだ。
そんな折、姉村松殿が嫁いだ先小山田家から歳暮に鮭を贈られてきた。当時上田城下を流れる千曲川では鮭が獲れたのだ。そしてそれは関西では珍しいものであった。これには幸村はいたく感激して次のような返書を認めている。
「返す返す、おぼしめしより、御飛礼忝く候。久々か様の住居にて候へば、何方よりも見舞便状にもあづかり候はんとも存ぜず候。御手前など御心中、更々御志等あるべく候とも存ぜず候。」
大意 かえすがえすもおぼしめしによりお手紙をいただきありがたいことです。長くこのように暮らしていますと、どこからもお見舞いなどいただけるとは思いませんでした。
さらに続いては自らのうらぶれた近況を飾ることなく淡々と記している。
「兎角兎角年之より申候事口惜候、我々なども去年より俄にとしより、事之外病者に成申候、歯なども抜け申候。ひげなども黒きはあまり無之候」
勇敢なイメージとは裏腹に、この書状から読み取れるのは、頭髪は白髪になり、歯は抜け落ち、病を気にかける初老の幸村の姿である。
そんな弱音を正直に書状にしたためた幸村だが、大坂城からの豊臣秀頼の使者の頼みに入城を決意する。「真田三代記」が伝えるのは豊臣の恩顧に報いるためということになっているのだが、そうではあるまい。幸村は豊臣に恩顧を感じるような立場にはなかった。舅の大谷吉継も妻であるその娘ももうこの世にはいないのだ。
もちろん目の前に積まれた黄金は十分に魅力的であったろうがそれだけではあるまい。
Posted by 南宜堂 at 23:04│Comments(0)
│真田十勇士