2013年09月03日
長野の文明開化
明治の石油会社のことを書きましたが、一方で文明開化の波は山国信州にもひたひたと押し寄せており、石油ランプに変わって電灯が使われるようになったのです。土地の資産家が資金を出して電灯会社が作られました。現在のように何々電力といった巨大な会社ではなく、町単位、市単位で電力を供給していたのです。
明治になると、商家や旅館の建ち並ぶ大門町に、新しい時代を象徴するような会社が生まれた。長野電灯と長野中牛馬会社だ。
長野電灯の本社は、大門町の現在は市営駐車場になっている場所にあった。意匠を凝らした赤煉瓦造り二階建て、円形の塔をもつ洋館で、長野電灯が移転した後も医師会の建物として長く長野の人々に愛されていた。今はもうその姿はなく、御影石の「長野電燈発祥の地」の碑が残るのみである。
明治三〇年五月一七日、長野電灯会社の創業総会が、城山館で開かれた。会長は小坂善之助、村山村(現在の長野市村山)の地主で、「信濃毎日新聞」の創業者でもあった。長野電灯は茂菅に六〇キロワットの水力発電所を建設し、長野の町に電気を供給する計画だった。
一年後の明治三一年五月一一日の「信濃毎日新聞」に次のような記事が載っている。「長野電燈の開業、昨夜試点灯を行ひ今夕より開業。」この日の夜から長野に電灯がともるようになったのである。この時の電気料は、一〇燭光(約一〇ワット)電灯一灯が一ヵ月で七〇銭であった。その後明治三七年には大幅に値下げされ、一〇燭光が四五銭になっている。
長野の町に電灯がともったといっても、全部の家庭に普及していたわけではなく、開業から二年後の明治三三年、普及率はようやく三分の一に達したところであった。そうはいっても、文明の利器である電灯は石油ランプに代わって家庭に普及し、長野電灯でも明治三八年には芋井に新しい発電所を建設している。
一方、長野中牛馬会社の本社があったのは現在れんが館というレストランのある場所で、当時の煉瓦造りの建物がそのまま残されている。
江戸時代の後期、信州では中馬による物資の輸送が盛んに行われていた。中馬とは、それまで行われてきた街道ごとの宿継ぎによる物資の輸送ではなく、目的地まで宿継ぎなく運ぶもので、こうすることで、荷物の積み下ろしのの手間が省け、コストも安くなり荷主にとってははなはだ都合の良いものであった。山道などでは馬だけでなく牛も利用されていた。
明治になると、この事業を行うための中牛馬会社が各地にできてくる。長野では中澤与左右衛門が中心となって、明治五年に長野中牛馬会社が設立された。長野中牛馬会社はまだ鉄道の恩恵にあずかっていなかった高崎・長野間で、主として生糸の輸送にあたった。しかし鉄道の開通により、顧客をうばわれ徐々に衰退していった。
Posted by 南宜堂 at 08:56│Comments(0)
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