2013年09月28日

「信濃の国」誕生の地 2

 明治三二年、北村季晴が長野師範の教師になって青森から赴任してきた。この時北村の下宿の世話をしたのが浅井洌だった。浅井はたまたま自分の家の隣に格好の家を見つけ北村に紹介した。こんなことから二人の交友がはじまり、「信濃の国」が生まれたというわけである。
 その北村が「信濃の国」に曲をつけるようになったいきさつを再び、浅井洌の回想から振り返ってみよう。
「次いで明治三十六、七年頃女子師範生徒(男女師範の併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用いましたが、依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲を請いてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。云々」
 この回想文から見る限り、運動会の遊戯用にと浅井が北村に作曲を依頼したかのように述べられているが、この時浅井がすでに曲があることを知らずに北村に作曲を依頼したというのはどうしても浅井の記憶違いというほかはない。なぜならば、信濃教育会からの依頼は作詞と作曲をセットでなされたものであり、そのことは浅井は知っていたはずだからだ。昭和九年というと浅井の晩年である。記憶が薄れていたのかもしれない。
 中村佐伝治という人の書いた『信濃の国物語』という本によると、浅井と北村はたまたま下宿が隣同志で親しく行き来していたようで、浅井の家を訪問した北村が「信濃の国」の詞を目にし、「素晴らしい詞だから是非自分に作曲させてほしい」と懇願したと書かれている。
 真相というのは百年以上も時がたってしまうとなかなかわからないもので、当事者たちも亡くなっているし、話を伝え聞いた人たちも年をとってしまう。ましてや「信濃の国」のような超有名曲になると、その成立の過程は半ば伝説となってしまいがちだ。
 当時の関係者の人たちの証言を総合して判断するならば、北村作曲の「信濃の国」が運動会の遊戯用に作曲され、発表されたということは間違いないようだ。おそらく校長などから運動会用に曲をつくってくれるように依頼されていた音楽教師北村は、たまたま浅井の詞を見てひらめくものがあったのではないか。彼は後に上京しプロの音楽家になったくらいの人だから、その感受性は人一倍鋭かったことだろう。
 浅井洌の詞は信濃教育会の要請により、こどもたちが歌えるような故郷の唱歌を作りたいという事情があって、当時師範学校の教師であった浅井らに作詞作曲を依頼したということであった。しかしこの唱歌は信濃教育会の目論見通りには普及せず、歌われることもなくなってしまっていた。
 その後、病気で休職した依田弁之助に代わって音楽教師として北村季晴が青森から赴任して来る。彼は東京生まれの東京育ち、明治学院から東京音楽学校に進んだという新しい時代の青年であった。
 そんな彼に運動会に行う遊戯の作曲が依頼されたのだ。この作曲に彼はずいぶん苦しんだようである。浅井の詞「信濃の国」を選んだのは、詞として格調高く優れているということもあっただろうが、長野県内の名所旧跡をあまねく詞の中に歌い込んでいるということも北村が選んだ理由ではないかと思う。
 師範学校の生徒は県内各地から来ている。教師もまた同様である。この詞が好まれないはずはないと北村は思ったことだろう。
 さらにこの曲調である。女子の遊戯といえば「美しき天然」といった優雅なメロディーのものが選ばれると思いきや、意表をついて「信濃の国」だ。運動会の観客に新鮮な衝撃を与えたことは間違いない。
 北村自身の言葉ではないが、浅井が北村から聞いた話として、先の回想の中で次のように述べている。
「北村君は作曲した後で依田君の作った譜のあることを聞いて、それがあるならば別に作るのではなかったが、知らぬ故に女生徒の請うままに運動会の前に急遽作曲せり、蓋し依田君の譜は高尚にして宜しけれども習ってよく練習せねば誰でもまねることは難しいが、我が作曲は卑近平凡にして誰にもまねがしやすいから広く一般に歌うには我が作曲の方が歌われるならん。但し第四戴は練習を要する云々と語りたり。果たして作曲の難易に関せしにや。」
 最後の一言が意味深である。北村は謙遜してああいっているが、結構自信をもって作曲したのだということが浅井にはわかっていたのだろう。
 その後の「信濃の国」は師範学校の校歌となり、卒業生によって県内各地のこどもたちに伝えられていったことはご存じの通りだ。しかし、あの運動会の日の最初の衝撃がなければ、こうまで長く歌い継がれる曲とはならなかったかもしれない。


同じカテゴリー(長野の町)の記事画像
「町屋古本市」のご案内
長野の一箱古本市
街角の郷土史 文明開化の長野
いつから長野なのか
鐘鋳川に沿って
虎ヶ石
同じカテゴリー(長野の町)の記事
 明治以前の長野 (2014-04-23 11:01)
 鶴賀遊廓 (2013-09-29 20:22)
 権堂の暴れ獅子 (2013-09-06 09:49)
 長野の文明開化 (2013-09-03 08:56)
 長野の石油 (2013-08-31 09:36)
 長野県のはじまり (2013-08-29 10:31)

Posted by 南宜堂 at 10:33│Comments(0)長野の町

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。