2013年09月06日

権堂の暴れ獅子

 九月に入り各地では秋祭りが盛んです。長野市権堂の秋葉神社でも先日秋祭りが行われました。権堂アーケードの東端にあるこのお宮、もともとは違う場所にありました。

 もともと権堂の秋葉神社は裏権堂通りの南端にあった。しかし、明治一〇年に遊廓道路(現在のアーケード通り)ができ、二四年には三線路が開通し、境内の北と西が削られてしまった。明治三一年、秋葉神社は現在の地に移転し、一一月に遷宮祭が行われた。その日の模様を当時の信濃毎日新聞から引用すると「さて、同日午前九時の定刻になると、予定通り武井神社から行列がねりだし、東町をのぼって、東横町にで、大門町をおりて、さらに下堀小路から東町にはいり表権堂をくだって、西後町へでた。そして再度、裏権堂へもどり、田町からななめに秋葉神社の側を鶴賀新地に行き、そこからひきかえして秋葉神社に御神体を鎮座した。行列の模様は、古雅にして勇ましい大名行列で、行列中槍振りは、態度が壮快で、童男童女の児は、その容姿が優しくうつった。その他、二組の底抜け屋台があり、狂った猛獅子のような鶴賀新地芸妓の木遣節がありで、みな祭典の好出物であって、見物人を喜ばせた。」
 現在の秋葉神社は以前にくらべると少し境内は狭くなったが、町の中心にあって木々に囲まれた憩いの場をつくっている。そんな境内の一画に獅子頭の碑がある。有名な権堂のあばれ獅子だ。この獅子の由来についてはおもしろい話が明治時代の新聞に掲載されている。
 県庁がまだ西方寺にあった明治四年のこと。明治天皇の誕生日である一一月三日に、長野県では大獅子を出して賑やかにお祝いしようということになった。そこで白羽の矢が立ったのは勇み肌で知られる権堂の若衆たちであった。このことを聞いた権堂の人たちの喜びようはたいへんなもので、大獅子ができ上がるのを一日千秋の思いで待っていた。
 いよいよでき上がったから取りに来るようにとの知らせが県庁からあり、町の者が西方寺まで出向くと、中は大変な騒ぎになっていた。素袍帯刀姿の役人たちが、大獅子を冠って県庁の中を騒ぎ回っていたのだった。
 大獅子はたいへんな評判になった。天長節当日、長野の町に繰り出したのだが、調子に乗った県庁の斎藤大属などは自ら獅子の中に入り込んで暴れ回ったほどであった。
 天長節に、長野の町に繰り出して暴れ回った大獅子は、明治六年正式に権堂村に下付された。この大獅子はその後「権堂の暴れ獅子」として名を馳せることになる。この時てっきり自分たちのところに下げ渡されるものと思っていた横沢町の若者たちと大喧嘩となり、耳をそぎ落とされる者まででる騒ぎとなったというエピソードも残されている。



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Posted by 南宜堂 at 09:49│Comments(0)長野の町

 
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