2010年04月18日

象山紀行 6

 佐久間象山も吉田松陰も、嘉永6年の黒船来航のときには期せずして浦賀に急行している。「維新史料綱要」は嘉永6年6月4日(1853)に次のように記している。
「松代藩士佐久間修理「啓」藩命に依り、浦賀に赴いて米艦の動静を視察す。六日江戸に帰る。」
「元萩藩士吉田寅次郎「矩方」 浦賀・久里浜「相模国三浦郡」に赴き、米艦の状を視る。」
 ペリー艦隊の発見は、6月3日の早朝のことである。その知らせが江戸に届いたのは、その日の夜のことだった。象山の浦賀行きはその翌日であるから、ずいぶん早い対応である。徒歩と船で浦賀に着いたのは、夜の11時頃であったようだ。
 松陰が浦賀に着いたのは、象山に遅れること一昼夜、6月5日の午後10時頃であったという。
 師弟はここで、黒船の模様をつぶさに観察し、記録に残している。浦賀沖2キロの海上に4隻の艦船は停泊していた。旗艦サスケハンナ2450トン、ミシシッピー1692トン、サラトガ882トン、プリマス989トンである。
「維新史料綱要」はこの日の交渉の模様を次のように記している。
「浦賀奉行組与力香山栄左衛門「永孝」 米艦に抵り、長崎廻航を促す。聴かず。栄左衛門、遂に七日を期し、国書受否を回答すべきを約す。」
「浦賀奉行戸田氏栄、組与力香山栄左衛門を江戸に急派し、米使我諭示に応ぜず、国書の受領を要むるを報じ、指揮を請ふ。」
 結局、幕府はペリー艦隊の圧力に負けて、国書の受諾を決めることになる。
 佐久間象山が、この黒船騒動になみなみならぬ関心を示したのにはわけがある。天保13年(1842)、象山は「海防八策」を藩主真田幸貫に提出して、今日の事態を予言していたのである。
其一、諸国海岸要害之所、厳重に炮台を築き、平常大炮を備へ置き、緩急の事に応じ候様支度候事。
其二、阿蘭陀交易に銅を被差遣候事、暫御停止に相成、右之銅を以、西洋製に倣ひ数百数千門之大炮を鋳立、諸方に御分配有之度候事。
其三、西洋之製に倣ひ堅固の大船を作り、江戸御廻米に難破船無之様支度候事。
其四、海運御取締りの義、御人選を以て被仰付、異国人と通商は勿論、海上万端之奸猾、厳敷御糾有御座候事。
其五、洋製に倣ひ船艦を造り、専ら水軍の駆引を習はせ申度事。
其六、辺鄙の浦々里々に至り候迄、学校を興し教化を盛に仕、愚夫愚婦迄も、忠孝節義を弁へ候様仕度候事。
其七、御賞罰弥明に御威恩益々顕れ、民心愈固結仕候様仕度候事。
其八、貢士之法起し申度候事


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Posted by 南宜堂 at 21:03│Comments(0)松代
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