2010年05月08日

象山紀行 10

 嘉永7年、吉田松陰の下田踏海事件に連座して、佐久間象山は南町奉行所の取り調べを受けた。4月6日の早朝、出頭した象山は白州での吟味の後、伝馬町の揚屋に収監されてしまったのだ。ペリー艦隊に乗組み、アメリカに密航を企てた実行犯の吉田松陰、金子重輔も同様であった。二人の乗った小舟に、象山が松陰に贈った詩と象山が添削した投夷書が残されていたのが動かぬ証拠と見られたのだ。
 松陰は、米艦に密航を断られたことで、もはやこれまでと観念し、自首して出たのだが、象山もこれを教唆したとして罪を問われたのである。
 この下田踏海事件というのは、松陰の密航の第2章ともいうべきもので、その前にこれは未遂までいかなかった長崎における第1章があった。松陰の「長崎紀行」は、次のように書き始められている。
「嘉永癸丑(嘉永6年・1853)九月十八日 晴。江戸を発し、まさに西遊せんとす。この行は深密の謀、遠大の略あり、象山師はじめこれが慫慂をなし、鳥山新三郎、永鳥三平、桂小五郎またこれが賛成をなす。その他の深交旧友は一識るものなし。朝、日本橋桶町の寓居を発し、象山師に過りて別れを告げ、品川駅に出づ云々」
 その目的については「長崎紀行」には何も記されていないが、下田踏海事件に際しての取り調べのときに、長崎行きの目的について次のように語っている。
「去夏以来異国の軍艦近海へ渡来致し候趣承り及び、深く心痛の余り西洋へ渡り国々の風教軍備等悉く研究致すべしと修理とも議論に及び候処、当今の形勢彼を知る事急務にして、間諜細作を用い候外良策これ無く候えども、重き御国禁に付き官許はこれ有るまじく、自然漂流の体に致し成し事情探索の上、立帰り候わば専ら御国のためにも相成るべき旨申す間、兼ての内存と符号致し頻りに西洋周遊の念差起り、去秋長崎表へ渡来の魯西亜船へ身を托すかまたは漁船を雇い渡海すべしと九州筋遊歴の積りにて修理方へ暇乞いにまかり越し候処、その胸間を察し送別の試作を贈る。」
 象山と間で中浜万次郎のことが話題にのぼったようなのである。万次郎は土佐の漁師で、しけにあい、無人島に漂着していたところをアメリカの船に救われ、アメリカで教育を受けた。帰国後はその英語力がかわれて、幕臣の取立てられたのである。これをヒントに、松陰の密航計画は立てられたようである。
 松陰が長崎に向かったのは、長崎港に停泊していたプチャーチン率いるロシアの極東艦隊に身を投ずるためであった。しかし、プチャーチンの艦隊は、松陰がたどり着く二日前、長崎を去っていた。


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Posted by 南宜堂 at 21:11│Comments(0)松代
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