2011年08月01日

原子力ムラ

 開沼博・著「フクシマ論」を読み進めている。ほかに読みたい本が出てきたりして、中断しながらの読書であるので、なかなか前に進まないが、著者がいうところの「原子力ムラ」という概念が興味深い。原子力ムラというのは、政府・族議員・電力会社・御用学者といった原子力発電を推進してきたグループを指すと同時に、それを受け入れてきた地元の自治体や共同体をも指す言葉として著者は使っている。
 原子力発電所の建設反対の運動が行われていても、既成事実として建設が行われ、運転がはじまってしまうと地元では誰も反対するものがいなくなるのだという。著者はこの現象を「原子力ムラ」という概念で読み解こうとする。「原子力」と「ムラ」とは近代の最先端と前世紀の遺物のようなものである。しかし、この相反する言葉のもつ概念が、原発を受け入れた地域社会の中では互いに交じりあい、新たな共同体のアイデンティティとして機能しているのである。
 原子力発電所のある町村では、3、4人に1人は原子力発電所の関連施設で働いている。直接ではなくとも、何らかの形で原発の恩恵を受けている人が住民の大多数に上るのである。原発による利益が共同体全体に及んでいるのである。
 そういう社会で、原発の安全性が担保されているのであれば、豊かな生活を享受することに何の迷いもなくなる。豊かな生活を実感した後に、それでも原発には反対だというものがあれば、それは共同体にとって裏切り者になるだろう。原発の危険性をいうのは、共同体の外からその共同体を攻撃するのと同じ行為なのだ。
 原発のある環境の中で、それのもたらす利益を享受して生活しているということは、共同体の意志となる。そこに帰属しているという実感をもつためには原発反対ではいけないのだ。かくして、原発に反対するものはいなくなるのである。

 私たちが共同体に帰属していると感じるのはどんな時なのだろうか。
 先日、母の命日に合わせて墓参に行ってきた。そこは私が10歳まで生活していた場所である。かつては桑畑と水田だけが広がる田舎であったのだが、今では団地ができたりしてすっかり桑畑は姿を消した。それでも一面に広がる水田は健在で、昔の面影をとどめていた。
 墓に手を合わせ、あたりの景色を眺めていると、懐かしさとともに安心感のようなものを覚えるのはここが自分が還っていくいく場所だと思うからだろうか。私にとって村とはそんな心のあり方ではないかという気がするのである。
原子力ムラ


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Posted by 南宜堂 at 10:25│Comments(0)雑記

 
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