2011年11月29日

本屋は死なないのか?

 久しぶりに新刊の本を買って読んだ。原発関連以来かな。石橋毅史『「本屋」は死なない』(新潮社)。
 少し前に岡崎武志さんがブログで紹介していて気になっていた本だ。ネットの書店で買ったのだが、後で町の本屋さんで買えば良かったと後悔した。この本、町の本屋さんがどんな陳列をしているのか見てみたかった。見に行けばいいのだが、なかなか新刊書店には足が向かない。
 古本屋と新刊書店は、本を売っていることことでは一緒だが、私はまったく違う業態ではないかと思っている。一番の違いは新刊本は委託商品だが、古本は買い切り商品だということだ。新刊の本屋にある本は出版社のものだが、古本屋の本は店のものという違いなのだ。だから、私は新刊書店というのは取次から送られてくる本をただ並べて売っているだけという風に思っていたのだが、この本を読んでその認識は間違っていたことを知った。私も出版社にいて、全国の書店を回ったことがあるが、書店の個性というのは外商の個性であり、店売りはどこも変わらないと思っていた。私の目は節穴だったようだ。

 私がこの本のタイトルに興味を覚えたのは、最近盛んに話題となっている電子書籍というものに、書店はどう対して行こうとしているのかということを知りたかったからである。電子書籍が普及すれば書店は必要なくなると思うのだが、それでも本屋は死なないのか。その期待はかなえられなかった。そもそもこの本はそういう本ではないのだ。本屋というより、そこに働く書店人たちの本を売るということへの思いを追ったもので、そんな近未来の話ではなかったのである。
 私は出版社に20年ほど勤めたが、そのうち書店営業というのを2年経験した。出版社といっても学習参考書の版元であったから、行くのは学参の棚で、個性的な棚づくりに気付くことはなかった。一部外商商品もあって、外商の担当とは接したがこれは本を扱うというよりは宝石やベッドを扱うのと同じ感覚だった。

 この本を読みながら常に思っていたのは、この人たちは他人のつくった本を売るのにどうしてこうも情熱的になれるのだろうということであった。著者でもない編集者でもない書店員がである。出版社にいた頃は考えてもいなかったことだった。本は著者と編集者の力で売れるものと信じていたのである。
 本が好きだということは前提にあるのだろう。もちろん商売なのだから売ろうとするのは当然である。それは当然なのだが、それよりもこの本を売りたいという情熱は、売れるか売れないかは自分のやり方にかかっているのだという信念のようなものがあるのだからだと思う。
 直接に読者に手渡す位置にいる自分こそが本の売れ行きを左右しているのだという自負が彼らにはあるのだ。電子書籍が普及した時、そんな本のコンシェルジュ的なことは誰がするのか。まったく必要はないのか。紙の本が存在し、本屋で売られ続けることの意義はそんな書店員の役割にあるのかもしれない。しかし、出版社も読者もそういう煩わしいものはいらないと判断するなら、電子書籍の普及はあっという間だろうなと思う。
本屋は死なないのか?


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Posted by 南宜堂 at 12:01│Comments(0)雑記

 
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