2012年02月26日

小商いな生き方

考えてみれば、あの頃は毎月1回か2回は高田馬場に来ていたのに、古書現世さんには1度も入ったことがなかった。それどころか、その存在さえ知らなかった。古書には興味がなかったようだ。芳林堂や未来堂にはよく行っていたのだが、古本屋には足が向かなかった。
唯一ビッグボックス前の古書市のことは知っていたし、買ったこともあった。古書店は敷居が高かったのだろうか。古本屋への入口として古書市は大事かもしれない。

さて、本郷である。むかし一緒に働いていたKさんが、大連の大学の講師となって赴任するということで、送別会を兼ねて旧交を温めようということになった。その前に彼女の母校である本郷の大学を案内してもらった。この大学の構内に入るのは初めての体験である。
赤門、安田講堂、三四郎池など紙面や画面では見たことのある有名な場所を見物させていただいた。その上、学生食堂で最高学府の学生に混じってお茶まで飲んだ。味は普通だった。
安田講堂が未だに存在していたということは驚きだった。機動隊が入った時のことをテレビで見ていたと話すと、Kさんは「私には歴史です」と言う。そうなのだ、彼女はあの事件のずっと後に生まれているのだから、歴史であって当然なのである。このキャンパスを行き交うほとんどの人にとっては歴史なのである。

私には、あの全共闘運動の本質は何だったのか、よくわからない。私が大学に入った時には、もう運動は終息に向かっていた。わだつみ像が壊され、高野悦子が自殺したのはその前の話なのである。大学の構内は、今ほどには静粛で整然としていたわけではない。ヘルメットの学生はいたし、あちらこちらに立看板があった。しかし、セクト同志がそこでぶつかるような騒ぎはもう無くなっていた。
彼らの運動が目指している方向はよくはわからなかったが、その中に就職にための予備校化している大学の在り方への強い否定があったように思う。それが自分たちの存在の否定、自己否定となり、ついには大学解体を叫ぶようになった。

大学は解体されず、機動隊が入ってもとに戻った。大学は相変わらず将来の安定した生活のための予備校として存在している。そんな大学のあり方について、平川克美さんは『小商いのすすめ』の中でおもしろいことを書いている。「それはたとえば、大学の授業において、実業界で経験を積んだ人物を招聘して、即戦力として役に立つ人材を育成すれば、有能なビジネスマンを社会に送り出すことが可能になり、結果として社会の生産性が上がり、ひとびとの生活が豊かになることにつながるはずだといった『即戦力』志向の教育方針です。」まさかこんな教育をしている大学はないだろうが、思想においてこういった方法を目指している大学は多いのかもしれない。そうやって養成されたビジネスマンは「多くの現場の問題は、ここから先、つまりものごとがうまく進まない状況をどのように打開してゆくのかというところにあるのですが、そういったまさに現場で戦力として役に立つような思考回路は、上記の学習した理論の中からは出てきようもないのです。」

Kさんは、T大学を卒業して後、結構大きな国の組織に就職したのだと聞いた。しかし、その安定した職場をあっさりと捨てて、つぶれそうな出版社に入った。その後、再び大学にもどり大学院を出て中国に渡ろうとしている。思想としての「小商い」を実践するような生き方ではないかと思う。

その夜は日本酒とうどんでKさんの前途をお祝いしたわけだが、最近の女性は酒が強いと痛感した次第である。


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Posted by 南宜堂 at 22:22│Comments(0)雑記

 
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