2012年03月09日

松代行

飯田から友人が店に来てくれた。長野で会議があったとかで、午前中に用事が済んだのでとのことであった。せっかくなのでどこか御案内しましょうということになり、松代に向かった。松代大本営のあった地下壕には行ったことがあるということで、海津城跡、真田宝物館、象山神社を案内する。友人は元中学校の社会科の教師で、なかなか質問が鋭い。こちらも今は松代の勉強中であったから、いい復習になった。
改めて海津城跡に立ってみると、ここに信玄が城を築いたわけが理解できる。東・北・南三方に山が迫っている。西側だけ川中島平が見渡せるのだが、その間には千曲川が流れている。信玄の時代には、千曲川は城のすぐ近くを流れていて、天然の外堀のような役目を果たしていたようである。
「なぜ海津城というのだろうね」早速の質問である。さて、この辺りは海津という地名ではなかった。松代全体は縣の荘と言っていたらしい。そこの豪族である清野氏の屋敷を城にしたと「甲陽軍鑑」には書かれている。松代と言われるようになるのは江戸時代になってからである。
あくまで推測だが、千曲川を海に見たて、そこにのぞむみなと(津)のような地ということで海津の名がついたのではないか。これは後で調べてみよう。
さらにはどうして天守閣がなかったのかということも聞かれた。本丸には本丸御殿があったが天守閣はない。もっとも天守閣のない城は珍しいわけではない。天守閣というのは実用的な用途はなく、権威の象徴としての建物であった。安土桃山時代や江戸時代の初期には華麗な天守閣が築かれたが、松代はこの時代安定して治めていた領主はおらず、天守閣をつくる余裕がなかったのだろう。真田氏が入封して安定したが、元和元年の「一国一城令」からは新規の築城や修復が難しくなり、実用性のない天守閣は築かれなくなったものと思われる。
この城跡は最近になって整備されたもので、バブルの頃ならどさくさに紛れてエレベーター付きの怪しげな天守閣をでっち上げたのかもしれないが、さすがに松代は史実に忠実に復元整備を行なったようである。そういえば、真田氏の元の居城上田城にも天守閣がなかったと聞いている。
真田宝物館に入った時はもう閉館間際の時間で、駆け足での見学となった。大名といえど、真田氏は質素な暮らしぶりであったようだ。華美を好む家柄ではなかっただろうが、江戸時代を通して財政が厳しかったということもあった。幕府は参勤交代をはじめ、さまざまのお手伝い普請を大名に課し、その力を削いだ。真田氏も同様で、信之の時にあった蓄財が瞬く間に無くなってしまった。さらには松代藩は千曲川の洪水に悩まされ、この土木工事で幕府に借金をするようになってしまった。ここから恩田木工の改革がはじまるのだが、まだそこまでは調べが進んでいない。
最後に夕暮れの象山神社をおとずれた。ここはゾウザンジンジャという。一般にはショウザンで、パソコンの変換もゾウザンでは候補が表示されない。しかし、長野県の教師であった友人は県歌「信濃の国」を教えてきた立場として「ゾウザンサクマ先生」なのである。象山の雅号を巡っては以前に書いたことがある。井出孫六さんの「小説佐久間象山」にも触れられている。象山自筆の書きつけが発見され、そこには「シャウザン」と書かれていたのだと言う。
象山は「宇宙に実理は二つなし」と言い、西洋の科学技術に絶対の真理を見出していた。しかし、それを学ぶには東洋の道徳を持ってすべしとも言っている。昨年の福島原発の事故は、まさに科学を操る人間の資質を問うものでもあった。
松代は佐久間象山をはじめ多くの人材を排出しながら、50年ほど前に長野市に合併するまで、ずっと松代町のままだった。信越線がここを通らなかったために発展が遅れたのだとも言われている。幹線鉄道には恵まれなかったが、私鉄の河東鉄道が屋代と須坂の間に鉄道を敷いた。その電車も今月で廃線になる。時勢ということか。


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Posted by 南宜堂 at 02:11│Comments(0)松代

 
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