2012年08月08日

真田の里

かつては長野県小県郡真田町という自治体があった。平成の大合併により、2006年に隣接する上田市と合併して上田市の一部となった。
真田町という町名もそれほど古いものではない。1958年、小県郡長村、同傍陽村、同本原村が合併してできた町である。町名を決めるにあたって、公募によって真田町と決まった。有名な真田氏に因んでと言われるが定かではない。その旧長村に真田という地区があって、ここは1876年までは真田村であった。
この辺りが真田氏発祥の地といわれている。その中心は山家神社である。山家神社は小県に四社ある「延喜式内社」のひとつで、由緒は古い。この地区の産土神であるとともに加賀の白山社を合祀している。
この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山山頂にある。四阿山は日本百名山の一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。
ここを本貫地とする真田氏のはじめは、戦国時代各地に割拠する小豪族のひとつであったろうと思われる。その真田氏が大きくなるのは幸隆の時代であり、武田氏に臣従し武田氏とともに領土を拡大していったからだ。
現代の視点から見ると、真田は一大観光地である菅平高原への登り口の町である。40年ほど前までは、上田からここ真田まで電車が走っていた。上田交通真田・傍陽線である。昭和47年に廃線となったのだが、終点の真田駅は山家神社の近く、現在は農協の支所となっているあたりにあった。菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」と建設を決意したのだという。
真田線は上田を出ると、上田城の堀の中を走っていた。空堀となった所に線路を敷いていたわけだが、堀の中にかつての「」駅のホームが残されている。上田城は、真田から進出した昌幸の築城になる城だが、真田線は二つの真田氏ゆかりの地を結んでいたわけである。
その旧真田駅のあたりから登り坂を山家神社に向かって歩いてみた。菅平から上田に向かう道路が神川に近い場所に建設されたせいか、走る車も少ない。落ち着いたいい集落である。
山家神社は深い社叢のなかに拝殿が建つ。だがこの森は意外にも歴史が新しいのだという。明治20年の真田大火で大方が焼け、大正のはじめ植林されたものが育ったのである。とすれば、真田の集落はこの時の大火で大きな被害を受けたのだろう。
天文10年(1541)、武田・村上・諏訪の連合軍が小県の地に攻め入り、海野平で海野氏を破った。このとき、真田幸隆は海野氏とともに上野に逃れたのだが、それまで真田氏の屋敷はここ山家神社の近くにあったのだといわれている。
屋敷跡はもちろん、集落も今ではどんなものであったのか痕跡も残っていないのだが、山家神社の森にたたずんでいると、山々に囲まれた平和な集落の姿が思い浮かんでくるのである。

海野氏は「滋野氏三家」の頭領であると名乗っていた。滋野氏は「清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことにはじまるとされる。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
滋野氏はその後、領地である海野庄に因み海野を名乗るようになる。海野氏の初代は重道であり、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。これが滋野氏三家の概要であるが、あくまでも「とされる」程度の話であり、実際に海野氏が清和天皇に源を発しているのかどうかは定かではない。この時代の系図というものは相当いい加減なものも多く、由緒正しき貴種の末裔であると名乗っていても土着の豪族である場合が多いのである。
ただ、滋野氏が都から派遣された国牧の管理者だったのではないかとする説は注目に値する。古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名で、中でも望月の牧は、信濃の国16牧の筆頭に数えられていた。紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。
このように海野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なっていたようである。さらには、望月氏から別れた甲賀望月氏について、兵藤裕巳氏により次のような指摘もされている。
「甲賀望月氏は、信州望月の牧に拠った滋野三家(望月・海野・禰津)の一流である。中世には諏訪信仰をもちあるく山伏となり、なかでも近江国甲賀郡にうつり住んだ望月氏は、甲賀五十三家といわれた地侍(いわゆる甲賀流忍者)の宗家となっていく。」(「太平記よみの可能性」)
甲賀に望月氏の一族が土着したのは、牧で産した馬を都に運ぶ途次、途中の甲賀付近で休養し調教を行っていた関係で、古くから縁があり、平将門の乱で望月三郎兼家が武功の恩賞として近江国甲賀郡を賜ったことによるという。
忍法のもととなったのは、山伏や修験者の山岳での修行や荒行であるといわれている。もともとこの信州の山岳地帯を本拠地とする海野一族は山伏との関係が深く、忍法のもととなるような武術も身につけていたのではないかということは考えられる。それが甲賀に移り甲賀流の忍術となり、信濃にあっては、真田得意の奇襲作戦に発展していったのではないか。
戦国時代になって、この甲賀望月氏の一族から信濃望月氏の当主望月盛時の妻となったのが、望月千代女である。望月千代女は武田信玄の命により同じ小県郡の禰津の里に巫女の養成所をつくり、彼女らに忍法の修行もさせ全国をまわり情報を集めさせた。いわゆる歩き巫女、ののう巫女と呼ばれる女たちである。



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Posted by 南宜堂 at 00:53│Comments(0)真田十勇士

 
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