2012年09月09日
真田幸村の早すぎた晩年
父上の上田城が欲しいと言った真田幸村でありましたが、関ヶ原後の幸村は城どころか命をも取られるところを、兄信之の必死の嘆願で高野山への配流という裁定が下ったのです。
幸村は34歳で隠居を強いられたようなものでした。いかに人生50年の戦国時代でも早すぎる晩年というべきではないでしょうか。
その辺のことをまた「藩物語 松代藩」から引用します。しつこいようですが宣伝と思って我慢してください。
「昌幸が死んでからは、古くからいた家臣も一人去り、二人去りして周辺はだんだんに寂しくなった。仕送りも減り、生活はさらに苦しくなった。内職に「真田紐」をつくり、家来たちが全国に売り歩いたというが、これはあくまで伝承だ。
再び真田が歴史の舞台に躍り出るのは大坂の陣においてである。慶長十九年七月、家康は方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」に難癖をつけ、大坂征討を全国の大名に号令する。十月には信之のもとにも出陣命令が届いた。信之は病気を理由に自らは出馬せず、長男信吉と信政を出陣させた。
対する豊臣方も全国の豊臣恩顧の大名や関ヶ原の戦いで録を失った牢人たちに支援の要請をした。しかし、天下の大勢はすでに決しており、豊臣につく大名はいなかった。
信繁のもとにも大坂からの使者が訪れた。この時の条件は黄金二〇〇枚、銀三〇貫文、五十万石の大名として処遇するというものであった。信繁は承知した。
十月九日、信繁は長子大助以下三〇〇人の軍勢を率いて九度山を脱出、大坂に向かった。十四日、大坂城に入った信繁には兵六千人が与えられた。真田兵は真っ赤な鎧甲冑に幟、指物まて赤一色で「真田の赤備え」とよばれて徳川方から恐れられた。」
「信繁(幸村)は承知した」とだけしか書きませんでしたが、私は作家ではないので勝手な自分の想像を書くわけにはいきません。ここから後は我がブログですので勝手なことを書いても咎められないでしょう。とは言うものの、池波正太郎が「真田太平記」で表現したこととそれほど違うことではありません。
入城後のことですが、義兄小山田茂誠宛の書状にこんな一節があります。
「兎角兎角年之より申候事口惜候、我々なども去年より俄にとしより、事之外病者に成申候、歯なども抜け申候ねひげなども黒きはあまり無之候」
勇敢に戦う姿とは裏腹に、この書状から読み取れるのは、頭髪は白髪になり、歯は抜け落ち、病を気にかける初老の幸村の姿です。
そんな弱音を正直に書状にしたためた幸村なのですが、なぜここで戦おうという心境になったのでしょうか。豊臣の恩顧に報いるためではあまりにきれいすぎます。
「真田太平記」では、このまま山の中で果てるのは辛い、男がこの世に生まれ生きた証しを残してみたいと、幸村はその心情を吐露するのですが、このセリフに中年を過ぎた現代の男たちはホロっとすると思います。時代小説の魅力というのはこんなところにあるのではないかと思ってみたりします。
実際の世のお父さんたちは家族や同僚や上司やの関係の中でぐじゃぐじゃになっていますから、幸村のようにスッキリ生きてみたい。そして、傍で「微力ながらお手伝い申します」などと言ってくれるおこうのような女性がいたらもう最高だろうと思います。
しかし、幸村とて近世の現実の中に生きていた男であることは間違いないのです。やはり城は欲しかったのではないかと思います。歴史に名を残すという名誉の城ではなく、現実の城です。
15年の九度山での生活は経済的にも苦しかったようです。趣味の連歌にもなかなか打ち込めず、好物の焼酎にも事欠くような状況だったといいます。老骨に鞭打ってここでもう一度世に出る道を掴みたいと思ったとしたら、幸村のイメージは崩れてしまうでしょうか。
幸村は34歳で隠居を強いられたようなものでした。いかに人生50年の戦国時代でも早すぎる晩年というべきではないでしょうか。
その辺のことをまた「藩物語 松代藩」から引用します。しつこいようですが宣伝と思って我慢してください。
「昌幸が死んでからは、古くからいた家臣も一人去り、二人去りして周辺はだんだんに寂しくなった。仕送りも減り、生活はさらに苦しくなった。内職に「真田紐」をつくり、家来たちが全国に売り歩いたというが、これはあくまで伝承だ。
再び真田が歴史の舞台に躍り出るのは大坂の陣においてである。慶長十九年七月、家康は方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」に難癖をつけ、大坂征討を全国の大名に号令する。十月には信之のもとにも出陣命令が届いた。信之は病気を理由に自らは出馬せず、長男信吉と信政を出陣させた。
対する豊臣方も全国の豊臣恩顧の大名や関ヶ原の戦いで録を失った牢人たちに支援の要請をした。しかし、天下の大勢はすでに決しており、豊臣につく大名はいなかった。
信繁のもとにも大坂からの使者が訪れた。この時の条件は黄金二〇〇枚、銀三〇貫文、五十万石の大名として処遇するというものであった。信繁は承知した。
十月九日、信繁は長子大助以下三〇〇人の軍勢を率いて九度山を脱出、大坂に向かった。十四日、大坂城に入った信繁には兵六千人が与えられた。真田兵は真っ赤な鎧甲冑に幟、指物まて赤一色で「真田の赤備え」とよばれて徳川方から恐れられた。」
「信繁(幸村)は承知した」とだけしか書きませんでしたが、私は作家ではないので勝手な自分の想像を書くわけにはいきません。ここから後は我がブログですので勝手なことを書いても咎められないでしょう。とは言うものの、池波正太郎が「真田太平記」で表現したこととそれほど違うことではありません。
入城後のことですが、義兄小山田茂誠宛の書状にこんな一節があります。
「兎角兎角年之より申候事口惜候、我々なども去年より俄にとしより、事之外病者に成申候、歯なども抜け申候ねひげなども黒きはあまり無之候」
勇敢に戦う姿とは裏腹に、この書状から読み取れるのは、頭髪は白髪になり、歯は抜け落ち、病を気にかける初老の幸村の姿です。
そんな弱音を正直に書状にしたためた幸村なのですが、なぜここで戦おうという心境になったのでしょうか。豊臣の恩顧に報いるためではあまりにきれいすぎます。
「真田太平記」では、このまま山の中で果てるのは辛い、男がこの世に生まれ生きた証しを残してみたいと、幸村はその心情を吐露するのですが、このセリフに中年を過ぎた現代の男たちはホロっとすると思います。時代小説の魅力というのはこんなところにあるのではないかと思ってみたりします。
実際の世のお父さんたちは家族や同僚や上司やの関係の中でぐじゃぐじゃになっていますから、幸村のようにスッキリ生きてみたい。そして、傍で「微力ながらお手伝い申します」などと言ってくれるおこうのような女性がいたらもう最高だろうと思います。
しかし、幸村とて近世の現実の中に生きていた男であることは間違いないのです。やはり城は欲しかったのではないかと思います。歴史に名を残すという名誉の城ではなく、現実の城です。
15年の九度山での生活は経済的にも苦しかったようです。趣味の連歌にもなかなか打ち込めず、好物の焼酎にも事欠くような状況だったといいます。老骨に鞭打ってここでもう一度世に出る道を掴みたいと思ったとしたら、幸村のイメージは崩れてしまうでしょうか。
Posted by 南宜堂 at 19:37│Comments(0)
│真田十勇士