2012年11月07日

中世の真田氏

 多くの史料から勘案するに、真田郷は幸隆以前から有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。例えば応永七年(一四〇〇)の大塔合戦には、実田(真田)・横尾・曲尾といった武士が旧真田町地区から参戦していることが『大塔物語』に記されており、永享十年(一四三八)の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが『真田町誌』にある。幸隆がこの真田氏の末裔であると考えるのは自然だろう。
 そんな中世の真田氏の館跡ではないかとされるのが、日向畑遺跡である。真田郷から菅平・鳥居峠方面に向かう国道一四四号線は途中で角間方面に向かう道と分かれる。ここに松尾古城と呼ばれる中世の城跡があるが、日向畑遺跡はその麓角間の集落の入口近く、小高い段丘の上にある。
 昭和四十六年から四十七年にかけて当時の真田町教育委員会により発掘調査が行われ、石造五輪塔や石造宝篋印塔、鉄器・土器・古銭が発掘された。年代的には中世のものとされ、幸隆よりだいぶ前の時代のものと推定されている。なお、遺跡の中の館跡とされる場所の一画には安智羅(あんちら)明神と呼ばれる木像が祀られている。この木像、幸隆十五歳の時のものという。
 戦時には松尾古城に籠もった真田氏は、平時は日向畑のあたりで生活していたものと思われる。真田氏の発祥の地真田の里にはこの松尾古城ほか多くの城跡があるのだが、中世の城というのは戦いのためのものであったから、それだけ領地を巡る争いが激しかったということである。


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Posted by 南宜堂 at 22:56│Comments(0)真田十勇士

 
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