2012年11月27日
信之、松代に移る。
先日お会いしたおやき屋総本舗の市川さんに誘われて松代の町おこしの会に出席した。「松代藩」の本にも書いたことだが、今松代では民間のNPO法人ができて、松代をもっと魅力的な町にという活動に取り組んでいる。
その中で市川さんは城下町松代の認知度を高めたいということを言っておられた。松代藩の祖である信之の知名度は弟の幸村に比して低い。これを何とかしたいということであった。そのことを私に託されたわけで、何とも大きな宿題をいただいたということである。
私は信之が松代に移封になった時が彼の晩年のはじまりではないかと思っている。この時信之は五十七歳になっていた。五十代後半といえば今でも初老と言ってもいい年齢である。ましてや今よりよほど短命であった江戸時代初期のこと、晩年といってもいいのではないか。しかし、信之の晩年はこれから一波乱も二波乱もあるのだ。
話が先走ってしまったが、移封のころに話を戻すと、信之はこの時隠居して京都に住もうとしていたようなのである。家臣の出浦半平に京都で土地を探すように命じた書簡が残されているのだという(真田淑子『家の譜』)。京都に住もうとしたのは親交のあった小野お通がいたからだと真田淑子さんは前掲の本の中で述べている。小野お通は、当時の京都にあって詩歌や琴、書画などに秀でた才媛で、秀吉の側室淀殿に仕えたという。永禄四年、織田信長の家臣の小野正秀の娘として生まれた。永禄四年といえば名高い第四次の川中島合戦のあった年で、信之より五歳年上になる。
池波正太郎の『真田太平記』には信之と恋愛関係にあったように描かれているが、残された書簡からは信之が一方的に憧れていたのではないかと思われる。また、大坂夏の陣で戦死した幸村の遺髪をお通が信之に届けたと池波正太郎は書いているが、これは全くのフィクションだろう。
一時は隠居して京都に住もうとした信之だが、結局幕府の命令に従って松代に移るのである。家老出浦対馬守に宛てた書簡には次のようにその心情を記している。
「尚々、我等事もはや及老後、万事不入儀と令分別候へども、上意と申、為子孫候条、任御諚、松城へ相移候事、於様子可心易候」年を取っての国替えは辛いが上意でもあるので子孫のために移ることにしたのであると。
父昌幸が死に、弟幸村も大坂夏の陣で戦死した。もうこれ以上自分が一戦に立って真田の家名を守らなくてもいいとその時信之はふと考えたのかもしれない。しかし、それを敢えてしなかったのは、一族のためそして家臣のためという責任を感じてのことであったろう。再び信之は老骨に鞭打って、城下町の建設をはじめるのである。
その中で市川さんは城下町松代の認知度を高めたいということを言っておられた。松代藩の祖である信之の知名度は弟の幸村に比して低い。これを何とかしたいということであった。そのことを私に託されたわけで、何とも大きな宿題をいただいたということである。
私は信之が松代に移封になった時が彼の晩年のはじまりではないかと思っている。この時信之は五十七歳になっていた。五十代後半といえば今でも初老と言ってもいい年齢である。ましてや今よりよほど短命であった江戸時代初期のこと、晩年といってもいいのではないか。しかし、信之の晩年はこれから一波乱も二波乱もあるのだ。
話が先走ってしまったが、移封のころに話を戻すと、信之はこの時隠居して京都に住もうとしていたようなのである。家臣の出浦半平に京都で土地を探すように命じた書簡が残されているのだという(真田淑子『家の譜』)。京都に住もうとしたのは親交のあった小野お通がいたからだと真田淑子さんは前掲の本の中で述べている。小野お通は、当時の京都にあって詩歌や琴、書画などに秀でた才媛で、秀吉の側室淀殿に仕えたという。永禄四年、織田信長の家臣の小野正秀の娘として生まれた。永禄四年といえば名高い第四次の川中島合戦のあった年で、信之より五歳年上になる。
池波正太郎の『真田太平記』には信之と恋愛関係にあったように描かれているが、残された書簡からは信之が一方的に憧れていたのではないかと思われる。また、大坂夏の陣で戦死した幸村の遺髪をお通が信之に届けたと池波正太郎は書いているが、これは全くのフィクションだろう。
一時は隠居して京都に住もうとした信之だが、結局幕府の命令に従って松代に移るのである。家老出浦対馬守に宛てた書簡には次のようにその心情を記している。
「尚々、我等事もはや及老後、万事不入儀と令分別候へども、上意と申、為子孫候条、任御諚、松城へ相移候事、於様子可心易候」年を取っての国替えは辛いが上意でもあるので子孫のために移ることにしたのであると。
父昌幸が死に、弟幸村も大坂夏の陣で戦死した。もうこれ以上自分が一戦に立って真田の家名を守らなくてもいいとその時信之はふと考えたのかもしれない。しかし、それを敢えてしなかったのは、一族のためそして家臣のためという責任を感じてのことであったろう。再び信之は老骨に鞭打って、城下町の建設をはじめるのである。
Posted by 南宜堂 at 13:11│Comments(0)
│真田十勇士