2012年12月29日

昌幸と信幸

「真田三代記」最大のクライマックスはというと、大坂夏の陣における真田幸村の戦死だが、下野犬伏における親子兄弟の別れもまた真田家の命運を分けた出来事であることは間違いない。
しかし、この去就、真田信幸の視点から見れば、取るべき立場は決まっていた。すなわちどこまでも徳川家康を信頼して、その麾下に残るということであった。信幸の正室小松殿は家康の重臣本多忠勝の娘であり、家康の養女となって信幸に嫁いでいた。そういった姻戚関係のしがらみもあったろうが、何よりも信幸は豊臣秀吉亡き後の天下を治めるのは、家康のほかにはいないという確信があったようである。
不可解なのは父昌幸の行動であった。
真田昌幸の正室である山手殿、すなわち信幸、信繁(幸村)の実母は宇田下野守頼忠の娘である。石田三成の妻も宇田頼忠の娘であり、二人は義理の兄弟にあたる。また、信繁の妻はよく知られているように秀吉の寵臣大谷吉継の娘である。しかし、このことは信幸の場合と同様に石田方につく決定的な理由とはなりえない。ことは真田家の存亡を決める時である。
それでは石田三成を十分に信頼し、真田家の命運を三成に託そうとしたのだろうか。しかし、石田三成という人物、秀吉恩顧の大名たちの間ではすこぶる評判が悪かった。加藤清正や福島正則は三成を毛嫌いしていたという。そういう評判を昌幸が知らないはずはない。それに、三成が天下を治められる器ではないということは、交流のあった昌幸はよくわかっていただろう。
この真相を語る直接的な資料というのは残されていない。『滋野世記』など後世になって書かれた文書と何通かの石田方からの手紙があるだけである。『滋野世記』には徳川家康にも豊臣秀頼にも恩を受けたわけではないが、この時を好機として、家を興し、大望を遂げようと思うという風に昌幸の思いが書かれているが、これは直接の同時代資料ではない。


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Posted by 南宜堂 at 08:49│Comments(0)真田十勇士

 
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