2013年01月01日

大坂よりの密書

 徳川時代にあっては真田の命取りにもなりかねない関ヶ原の戦い前夜の石田方からの密書は、真田信之の手によって秘蔵され、代々受け継がれてきた。これらは明治になってから公開されたのだが、幕藩時代には「吉光の御長持」とよばれ松代城の奥深く、昼夜寝ずの番がついて守られてきたのだという。
 関ヶ原の戦いに際しては信之の子の信政が徳川の人質となったのだが、家康は信之の忠義を賞して信政に与えたのが「吉光の短刀」であった。この長持にはその名刀が収められているとされていたが、じっさいにはこの長持の中には真田幸隆以来の重要書類も収められていて、その中には石田三成から真田昌幸に宛てた書状をはじめ、石田方からの書状が収められていた。
 おそらく秘蔵したのは信之であろう。そして、この書簡を信之に託したのは父昌幸であったに違いない。この時の昌幸の心情、そしてそれを受け取った信之の思いは想像するよりほかないのだが、父が追った夢の残骸を子は子孫に伝えたかったのではないかというのが、真田贔屓の私のいささか感傷的な感想である。信之はこれを焼き捨てることもできたはずである。それを敢てせず、代々守り続けたのは父のそして弟の事績をとどめておきたかったからではないだろうか。
 その石田方からの密書である。最初の書簡は慶長五年(1600)七月十七日付で長束正家・増田長盛・前田玄以からのもので、犬伏の昌幸の陣に届いた。追って二十九日付の書簡が三通届いている。一通は先の長盛ら三名からのもので、一通は宇喜多秀家からのもの、そしてもう一通は毛利輝元からのものであった。内容はいずれも同様で、京阪にいる諸将の家族を人質として取り置いたことをのべ、太閤秀吉の恩を忘れていないならば、秀頼への忠節を示すようにというものであった。
 これらの書簡について昌幸がどのように返信したかはわからない。しかし、この後信繁とともに兵をまとめて上田に引き返したことから、石田方につくことは決めたようだが、そのことをはっきりとは伝えなかったようなのだ。反対に三成に対しては、自分(昌幸)に事前の相談なく挙兵したことを非難しているような節がある。
 七月二十一日というから、石田方からの書簡を受け取って間をおかずだと思われるが、昌幸からの返書は犬伏の陣から使者によって近江佐和山の三成のもとに届けられた。三成がこれを見たのは二十七日のことであった。ここに三成への非難の文言がしたためられていたものと思われるが、三成は三十日に昌幸に宛てて言い訳めいた書状を送っている。注
 同じ日、信繁の舅にあたる大谷吉継からは昌幸・信繁に宛てて、信繁の妻子は自分が預かっているので心配しないようにということと、秀頼のために尽くしてほしいということを訴えた書状が発せられている。おそらくこの書状が昌幸・信繁親子の最終の後押しになったようである。八月五日、三成から昌幸・信幸・信繁の三名連名の宛名で出された書状には、大坂や伏見での戦果を伝えるとともに、会津の上杉景勝への連絡の仲介を依頼してきている。さらには、信濃のうち小諸・深志(松本)・川中島・諏訪の仕置を任せるとのあてがいも記されていた。


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Posted by 南宜堂 at 16:30│Comments(0)真田十勇士

 
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