2013年01月18日

真田信之 3

 その幸隆がどのような経緯からか敵であった武田氏に臣従するようになる。その時期は天文十三年・十四年・十五年と諸説あるのだが、少なくとも天文十八年には信玄の使者となっていることが『高白斎記』にあるので、これ以前であることは確かだ。
 幸隆が武田信玄に近づいた最大の理由は本領の回復であろう。旧領の小県は村上義清の支配下にあった。義清を倒してくれる武将は信玄をおいてほかにはないと幸隆が判断したとしたならば、その後の展開を考えて誠に慧眼であった。真田氏は武田の麾下にあって、その後小県から西上州にと勢力を拡大していくのである。
 真田幸隆が海野棟綱と共に上野に逃れた後、武田信虎は意気揚々と甲斐に凱旋したのだが、それからひと月もたたない六月十四日、信虎は嫡男晴信(後の信玄)によって駿河に追放されてしまう。
 甲斐を平定し、信濃に進出するという破竹の勢いの信虎にいったい何があったのだろうか。信玄研究の第一人者である信州大学教授の笹本正治氏によると、甲斐を統一したといっても信虎の力は盤石なものではなく、国人たちの力のバランスの上に信虎が載っているというのが当時の甲斐の国の現状であったのだとという。度重なる軍事行動により国人たちの不満は増大し、信虎を倒し、御しやすいと思われていた晴信(信玄)を据えようという動きがあったからこそのことであった。上杉謙信などは盛んに親を追放したことを攻撃しており、後世になっても信玄の冷酷さを示す例として取り上げられる事件だが、背景はもっと複雑であるようだ。
 いずれにせよ、信虎を追放した信玄は、六月二十八日に家督を継いだ。しかし、武田氏の信濃侵攻はそれによりおさまることはなかった。翌天文十一年七月、信玄は諏訪を攻めた。諏訪は前年に共に海野氏を倒すために戦った諏訪賴重の領土である。戦国時代の同盟関係というのはほとんどあてにならないくらいに脆いものであった。信玄は諏訪侵攻に当たって、旧領主の金刺氏、高遠の高遠賴継、諏訪大社上社の禰宜大夫矢島光清に同盟を呼びかけた。彼らはそれぞれに思惑をもって諏訪領を狙っていたのだ。
 上原城の頼重を、甲斐から出陣し御射山原(現在の富士見町)に陣した信玄と、高遠から杖突峠を越えて侵攻した頼継の軍が攻めた。無勢の頼重はたまらず桑原城に退いたが、四日信玄の勧告に応じて降参した。その後、頼重の身柄は甲府に移され、信玄の命により切腹させられた。
 諏訪全土を我がものにすることを狙っていた高遠頼継は、上原城が武田のものとなったのが不満であった。九月十日、頼継は箕輪の藤沢氏、上伊那の春近衆と結んで、武田が守備する上原城を奪った。この知らせを甲府で聞いた信玄は、頼重の遺児虎王を擁して諏訪に出陣した。
 戦いは安国寺の門前で行われた。賴重の遺臣を味方につけた信玄は圧倒的な強さで高遠軍を破った。この戦いで信玄は諏訪郡をほぼ手中にした。上原城には板垣信方を城代として置いた。
 天文十一年、信玄は懸案であった高遠攻めを敢行した。甲府を出発し杖突峠を攻め上った。高遠賴継はたまらず城を捨てて逃亡してしまった。勢いに乗った武田軍は続いて箕輪の福与城を攻めた。この戦いにも勝利をおさめた信玄は、上伊那郡をもほぼ手中にした。
 諏訪から伊那をほぼ平定した信玄が次に狙ったのは東信濃であった。佐久から小県にかけての攻略にはこのあたりの状況をよく知る真田を味方につけるのが得策であると考えたとしても不思議ではない。天文十五年、攻撃の矛先を佐久に向けた信玄は、内山城、前山城を破り、十六年の七月には志賀城も落とした。真田幸隆が武田信玄に臣従したのはこの頃であろうと思われる。
真田家菩提寺・長国寺
真田信之 3


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Posted by 南宜堂 at 22:23│Comments(0)真田十勇士

 
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