2013年01月23日
真田信之 4
武田信玄の北信濃攻略の前に立ちふさがったのは村上義清であった。葛尾城を本拠とする豪族で、清和源氏の流れをくむことを誇りにしていた。その祖先は応永七年(一四〇〇)の大塔合戦において、信濃土着の国人衆の一員として守護小笠原氏と戦い破っている。天文十年の海野平の戦いでは、信玄の父信虎や諏訪頼重とともに小県に攻め込み、海野一族を破っている。村上義清は、真田郷の奪還を目指す幸隆にとってもまず倒さなければならない敵であった。
信玄は天文十七年二月、まだ雪の残る大門峠を越え坂木に向けて兵を進めた。一方の義清は、葛尾城から上田原に出て信玄を迎え撃つつもりであった。両軍は現在の国道一四三号線(青木街道)を挟む形で南北に陣を張った。
武田軍は倉升山の麓を本陣とし、村上軍は天白山のあたりに本陣をおいた。激しい戦いが上田原から下之条あたりで行われた。結果は村上軍の圧倒的な勝利であった。板垣信方、甘利虎泰といった有力な武将が討ち死にし、信玄も傷を負っている。
『甲陽軍鑑』によれば、この戦いで真田幸隆は信玄より右翼の脇備えを仰せつけられたとされている。実際に参戦していたのであろう。幸隆にとっては村上義清を破り故国奪還の足がかりとしたい合戦であった。敗戦は誰よりも口惜しかったであろう。
強大な村上軍の前に、いったんは信濃から退いた信玄であったが、七月には態勢を立て直し、守護小笠原長時を塩尻峠に破った。天文十九年(一五五〇)には府中(松本市)をほぼ手中にし、再び北信濃への進出を図ってきた。
この年の五月、信玄は戸石(といし)城を攻めた。戸石城は小県(ちいさがた)地方ににおける村上氏の戦略拠点で、ここを攻め落とさなければ村上氏の本拠である葛尾(かつらお)城(埴科郡坂城町)に迫ることはできない。
八月二十九日、信玄は麓に陣を布き、九月九日に総攻撃をかけた。しかし、二〇日間におよぶ激しい攻撃にも城は落ちなかった。戸石城は東に神川(かんがわ)をのぞみ、西側も峻険な崖になっており、天然の要害ともいうべき城であった。
ほぼ一カ月の攻防は一進一退で、結局戸石城を攻め落とすことができなかった。九月晦日、信玄は軍議を開き撤退を決めた。翌十月一日、退却する武田軍に村上軍が猛攻撃をかけた。この退却戦で武田軍は多くの武将を失った。世にいう「戸石崩れ」である。
信玄が一月かけても落とせなかった戸石城であったが、翌年五月、真田幸隆によってあっさり落とされた。「高白斎記(こうはくさいき)」に「五月大朔日戊子二十六日節、砥石城真田乗ツ取ル」と書かれているだけでその詳細はわからない。村上軍に内応するものを作った幸隆の作戦が功を奏したためといわれている。
戸石城
信玄は天文十七年二月、まだ雪の残る大門峠を越え坂木に向けて兵を進めた。一方の義清は、葛尾城から上田原に出て信玄を迎え撃つつもりであった。両軍は現在の国道一四三号線(青木街道)を挟む形で南北に陣を張った。
武田軍は倉升山の麓を本陣とし、村上軍は天白山のあたりに本陣をおいた。激しい戦いが上田原から下之条あたりで行われた。結果は村上軍の圧倒的な勝利であった。板垣信方、甘利虎泰といった有力な武将が討ち死にし、信玄も傷を負っている。
『甲陽軍鑑』によれば、この戦いで真田幸隆は信玄より右翼の脇備えを仰せつけられたとされている。実際に参戦していたのであろう。幸隆にとっては村上義清を破り故国奪還の足がかりとしたい合戦であった。敗戦は誰よりも口惜しかったであろう。
強大な村上軍の前に、いったんは信濃から退いた信玄であったが、七月には態勢を立て直し、守護小笠原長時を塩尻峠に破った。天文十九年(一五五〇)には府中(松本市)をほぼ手中にし、再び北信濃への進出を図ってきた。
この年の五月、信玄は戸石(といし)城を攻めた。戸石城は小県(ちいさがた)地方ににおける村上氏の戦略拠点で、ここを攻め落とさなければ村上氏の本拠である葛尾(かつらお)城(埴科郡坂城町)に迫ることはできない。
八月二十九日、信玄は麓に陣を布き、九月九日に総攻撃をかけた。しかし、二〇日間におよぶ激しい攻撃にも城は落ちなかった。戸石城は東に神川(かんがわ)をのぞみ、西側も峻険な崖になっており、天然の要害ともいうべき城であった。
ほぼ一カ月の攻防は一進一退で、結局戸石城を攻め落とすことができなかった。九月晦日、信玄は軍議を開き撤退を決めた。翌十月一日、退却する武田軍に村上軍が猛攻撃をかけた。この退却戦で武田軍は多くの武将を失った。世にいう「戸石崩れ」である。
信玄が一月かけても落とせなかった戸石城であったが、翌年五月、真田幸隆によってあっさり落とされた。「高白斎記(こうはくさいき)」に「五月大朔日戊子二十六日節、砥石城真田乗ツ取ル」と書かれているだけでその詳細はわからない。村上軍に内応するものを作った幸隆の作戦が功を奏したためといわれている。
戸石城
Posted by 南宜堂 at 22:17│Comments(0)
│真田十勇士